第 三 十 六 章



真我 


【真とは?】 

 前回お話ししました、いざという時に自分を信じる心ですが、自分のどのような心を信じればよいのでしょう。
 普段から自分は、いざという時にあわてふためいて失敗することが多いと思っている人なら、いざという時には自分を信じれないはずです。つまり、どのようなことにも自信が持てないという人には、何をしてもうまくいくはずがありません。そのためにも、【真我】というものをよく知って、自分というものはどのような力があるのかということを、よく知るべきだと思います。
 さて、真我という言葉ですが、あまり日常では耳慣れない言葉かもしれませんが、本当の自分を知るためにはとても大事な言葉なのです。
 ではその真我の説明をしていきましょう。
 真我の【真】という字は御存知のように、『まこと・ほんもの・純粋・うそいつわりのないこと』等の意味です。そうすると、真我とは『まことの自分・ほんものの自分・純粋の自分・うそいつわりのない自分』ということになります。しかし、『まこと・ほんもの・純粋・うそいつわりのない』とはどのようなものをいうのかが問題なのです。
 ところで【真】は音読みで【しん】と発音しますが、【しん】と発音する字で他にどんな字があるのかをまず調べてみましょう。『神・心・新・信・親・芯・清・振・深・進・津・震』等々です。どうですか?【しん】という発音自体に、何か素晴らしい意味が含まれていると思いませんか。
 持に『神・心・真』は同じ意味が含まれていると思います。
 然るに、真我とは【神我】と書いても間違いにはならないのです。いや本来は、神我と書いたほうがよりわかりやすいかもしれません。なぜなら、『まこと・ほんもの・純粋・うそいつわりのない』とは、心の中心である精神のことで、神の心のことをいうのです。

【絶対と相対の関係】

 いきなり、まことやほんものとは精神である神の心だといっても唐突すぎますので、わかりやすく説明をしていきたいと思います。
 【真(まこと)】とは、「真理は一つである」といわれるように、絶対的なものなのです。心も中心は絶対的なものなのです。心を球に例えると、球の中心は一点です。つまり絶対的なものなのです。神も絶対的なものだといわれています。
 それでは、その絶対的なものというのを理解するために、相対と絶対というものを説明していきましょう。
 まず相対ですが、相対とはこの宇宙のあらわれの全てをいいます。つまり『上下・左右・前後・内外高低・重軽・大小・太細・長短・深浅・濃淡』等々のことで、いわゆる『陰陽』の世界のことをいいます。私達の生活や自然界の動きそのものは、相対の世界だということです。
 ところが、実は私達の世界は、相対と絶対とが組み合わさっているのです。 私達の世界は、縦横高さの三次元世界です。つまり立体的な世界です。ということは、全ての物には中心というものがあるのです。物の中心とは一つです。その中心から三次元的に広がって物質になるのです。
 つまり、中心は『絶対的』で、そこから広がったところは『相対的』ということになるのです。以前にも説明しましたように、言い換えると、絶対とは『変化しないもの』、相対とは『変化するもの』ということになり、またもう一つ別の言い方をすると『主従』の関係となるのです。
 例えば、我々がいる地球のある太陽系を見ますと、太陽が中心であり、変化しないものであり、主であるといえます。つまり絶対の存在なのです。そして、地球を含む太陽系の惑星は、中心の周りを廻るもので、変化するものであり、従であるといえるのです。つまり相対的な存在なのです。
 このように太陽系という一つの集団は、絶対と相対の組合せで出来ているのです。またこれ以外の集団や組合せというものも、中心という絶対的な存在と、周りのものという相対的な存在で出来ているのです。そして、その絶対と相対の組合せ同士も、また相対関係にあるのです。ところが最終的には中心は一つになってきます。宇宙の唯一絶対的存在というものはあるのです。

【精神とは?】

 このことを、私達の心に置き換えてみましょう。私達は心を「丸い心」と言ったり、「心に角がある」というように、心を立体的に表現します。
 すると、心にも変化しない中心と、変化する部分があることになるのです。しかしよく考えると、私達の心はコロコロとよく変化していると思います。「私は一度言ったことはコロコロ変えることはしません」等という人でも、「絶対に変えませんか」と言われて「絶対!」と答えれる人は少ないでしょう。
 つまり私達の心は、「変化する部分だけが心の全てだ」と思っている人が殆どだということです。
 しかし、心が立体であれば、必ず変化しない中心というものがあるのです。その中心の心を【精神】というのです。我々は一般に精神といったら、「精神がたるんでいる」というように変化するもののようにいいますが、本当は、変化しない純粋な心の部分なのです。
 中国の伝統医学において、三宝と言われてきた『精(せい)・気(き)・神(しん)』という言葉がありますが、中国伝統医学における【神】とは、『思惟・意識活動』のことを示すのです。日本で神というと何か特別な力を持った権力者という、宗教的なイメージを持ちますが、同じ神でも概念が全然違います。ここでの【神】は、中国伝統医学における神という概念に近いと思います。
 ではその神の概念ですが、どのような意識活動のことをいうのかといいますと、『慈悲と愛』の意識活動のことなのです。
 このようにいいますと、どうも宗教くさくてピンとこないかもしれませんが、言い換えると、『調和に向かう意識活動』のことなのです。それも、神とは心の中心のことなので、変化しない『調和に向かう意識活動だけの心』をいうのです。言い換えると『慈悲と愛だけの心』となるのです。
 これが、神の精と書いた『精神』という意味なのです。そしてその精神と表裏一体の意識活動のことを神というのです。つまり、大宇宙そのものの意識活動であり、絶対的な意識活動であり、永遠に変化しない慈悲と愛だけの意識活動のことです。

【表裏一体の意味を考えよう】

 ここで大事なのは、自分の精神と表裏一体の意識が【神】だということです。表裏一体というと、裏と表で別々のように思われますが、表裏一体とは【単一】のことをいいます。
 よく我々は「自然との一体感を味わう」とか「仲間同士で一体感を味わう」等と言うことがありますが、実際は【二体感】を味わっていることが多いのです。一体とは、自分そのものだということです。自然との一体感とは、自然そのものが自分の体だという感覚のことなのです。
 それにまた、どこかの宗教の本で読んだことがあるのですが、「人間の魂はいずれ神の意識に吸収されるのだ」と書いてありました。そして自分の意識はなくなるが、神の意識に吸収されることによって永遠なのだということでした。これを読んで、どうも意味が納得できませんでした。神の意識に吸収されるということは、言い換えたら征服されるということになるのです。会社で吸収合併というと、大体乗っ取られたことを言うはずです。吸収された会社側の人達には一体感は無いはずです。
 こう考えると、一体感という意味をよく考え直してみなくてはならないでしょう。
 例えば、十円玉を考えてみましょう。十円玉には裏と表があります。この裏と表とは文字通り表裏一体で、十円玉は単一なのです。十円玉の裏と表とを別々に考えたり、別々に扱うことはしないはずです。まして表が裏を吸収するなんてありえないはずです。
 十円玉に意識があるとしますと、意識は一つです。その意識の中に、裏の意識と表の意識があるのです。しかし、十円玉が真の意識だけを考えている時には、表の意識は忘れ去られているはずです。だといって、十円玉に表の意識が無いということにはならないでしょう。
 人間と神とが表裏一体というのは、この十円玉と同じことなのです。神と一体感を味わうとか自然と一体感を味わうという意味を、先ず理解して頂きたいのです。神と人間は二元論ではなく、一元論なのです。

【神の意識】

 つまり、神の意識そのものが、自分の意識の中にあるということです。
 では、その神の意識についてお話ししていきましょう。神の意識とは、自然の意識です。この自然の姿を見れば、自然の心がわかるでしょう。この自然は大調和の姿です。つまり先程も言いましたように、神の意識とは『調和に向かう意識活動だけの心』『慈悲と愛だけの心』なのです。しかし、宗教でいうところでは、『造物主』であり、宇宙物理学から見れば『ビック・バン』であり『第一原因』ということなのです。
 ということは、神の意識ということは、全知全能ということにもなるのです。すると、『全知全能』と『慈悲と愛だけの心』とは同じことになりますが、一寸考えると逆の立場のように思われませんか。なぜなら、全知全能というと、私達はそれを『絶対的権力者』というイメージを持っているからではないでしょうか。ところが、全知全能とは『全てを知り全ての能力を持っている』ことなのですが、その力をどのように使うかということとは別のことなのです。
 全てを知るとは、宇宙の真理です。宇宙の真理とは、宇宙は一つのものであり、その宇宙が調和の姿を現そうと、ある法則の元に活動しているという理念なのです。それを言い換えると、『慈悲と愛だけの心』というのです。
 神の意識というものを絶対者としたために、人間と神を分けてしまったのだと思います。ここでいう神の意識とは、人間の意識の中心に存在している、全宇宙、森羅万象に対しての慈悲と愛だけの意識活動をいいます。ところが、一般に言われている神の概念はどうでしょう。ではここで、一般に言われている神の概念というものを『広辞苑』で調べてみましょう。
  
【神】
 @人間を超越した威力を持つ、かくれた存在。人知を以てはかることのできぬ能力を持ち、人類に禍福を降ろすと考えられる威霊。人間が畏怖し、また信仰の対象とするもの。
 A日本の神話に登場する人格神。
 B最高の支配者。天皇。
 C神社などに奉杷される霊。
 D人間に危害を及ぼし、怖れられているもの。
(イ)宙。なるかみ。(ロ)虎・狼・蛇など。
 Eキリスト教で、宇宙を創造して支配する、全知全能の絶対者。上帝。天帝。
  
 以上が、『広辞苑』で調べた神についての概念です。
 どうですか?私達人間にはおよびもつかない、絶対的権力者のイメージではないですか。このような発想から、人間はちっぼけなもので、死んだら自分は無くなるとか、神に吸収されてしまうという考え方になるのではないでしょうか。
 このような考え方で、自分に絶対的自信が持てるのでしょうか。
 
【自分の意識の中心】

 先程説明しましたように、宇宙は絶対的なものと、相対的なものの組合せです。そしてその組合せ同士もまた相対的な関係です。そして、最終的には絶対的中心というものがあるのです。ところが、それらはバラバラで存在しているのではなく、一つのものです。
 この関係が、我々の魂と同じシステムではないでしょうかといっているのです。つまり、一人の人間は、自分という絶対的存在と周りの人々という相対関係で成り立っているのです。そしてまたそのグループと別のグループとも相対関係にあり、自分のグループという絶対的と相手のグループという相対的関係にあるのです。そして全宇宙の魂の関係に発展していきます。その中心は唯一絶対的なもののはずです。
 よく考えてみましょう。これらの関係は『全て自分の意識の中』なのです。魂と魂の関係という姿も、全て自分という意識の中で起こりうることなのです。そうすると、自分の意識の中心が、全宇宙の意識の中心ということになるのではないですか。
 そうです。全知全能であり愛と慈悲そのものの意識は、自分の中にあるのです。ただ、自分の中にあっても、自分が「自分にはそんな力はないのだ」と思うのも自由です。
 しかし、人間というものは自分が一番かわいいものでしょう。口では「自分なんて嫌いです」と言っていても、いざ自分に都合が悪いことがあると、避けたり言い訳をするのではないですか。つまり自分が自分をかばっているいることになるのです。中途半端に自分を卑下するよりも、素直にもっと自分を愛していかなくではいけないでしょう。それには、自分の本当の姿を認識して、自分を信じて生きるべきではないでしょうか。
 そのためにも、【真我】というものをまず知るべきだと思います。

【他力信仰は自分をだめにする】

 人間はいざ自分が困ったり苦しんだりすると、自分以外の神にすがろうとして、宗教団体の門を叩くのだと感います。しかし、そこで他力信仰を植えつけられてしまったら、かえって自分がちっぼけになり、宗教団体の言いなりになったりして、自分の考えが出来なくなってしまうのです。
 世界を見ても、各地で宗教戦争をしていますが、それぞれが神の名において戦っています。つまり、自分自身ではなく、宗教団体の教義に縛られているのだと思います。
 私達は、【神】というものを考えるなら、まず自分というものについて、もっと深く考えていくべきではないでしょうか。
 家族の問題、国の問題、世界の問題、宇宙の問題を考える前に、まず自分の問題だと思います。このようにいうと、自己中心的考え方だと言われる方がおられると思いますが、自分の中に全宇宙があるのだとわかると、自分だけの問題ではなくなってくるのです。今の日本の宗教団体は、『大乗思想』が主流です。つまり、人を救うことによって、自分が救われるという考え方が主流なのです。
 たしかに一理ありますが、考え方を間違うと、宗教団体のために人の為にと言いながら、自分自身がどんどんと苦しみの中に埋没していくことになってしまうのです。
 家族が病気になったり、もめごとが起きたりすると、先祖の霊のたたりだとか、前世の因縁だとか言って、献金をしたり御参りをさせたりして、肝心の問題には触れようとしないのです。これでは、自分というものをどんどんダメにしていき、挙げ句の果てには神を恨んだりということになるのでしょう。
 私達はもう一度、『神と人間の関係』についてよく考えてみましょう。
 神と人間は、陰と陽の関係で表裏一体なのです。人間を抜いた神はありえないし、神を抜いた人間もありえないのです。人間の心の中の中心が神であり、本質は『愛と慈悲』であり『全知全能』なのです。つまり、真の部分です。また表の部分の人間は、相対的であり、善と悪にゆれているのです。
 言い方を換えると、善とは自分の本質を現した姿で、悪とは自分の本質をうまく現していない姿だといえるでしょう。
 次章では、この善と悪について、【善我と偽我】というテーマでお話ししていきます。




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