第 三 十 七 章



善我と偽我 


【真我・善我・偽我】 

 まず、前章の復習で、真我を簡単に説明します。
 真我とは、自分の意識の中心である神の意識だと言いました。そして神の意識とは、『全知全能』であり『慈悲と愛だけの心』のことなのだとも言いました。つまり、大字宙の中心の神の心は、自分の意識の中心のことなのだと説明してきたのです。
 自分の意識の中心は、絶対的な心で相対的ではないのです。不変で不動の心です。
 しかし、我々はなかなかその心に気付かずに、またその心を現せないでいるのです。その心を現しきっているのが、釈迦でありモーゼでありイエスなのでしょう。これが善我なのです。と、このように言っても、ピンときて頂けないかもしれません。ではその善我と偽我について詳しく説明してみましょう。
 私達は、今まで生きてきて「良い事ばかりをしてきました」と言える方は、さぞかし少ないでしょう。当然良い事はしてきたでしょうが、悪い事もいくつかしてきたのではないでしょうか。いや、「悪い事をしてきたほうが多い」と言われるのではないでしょうか。私などはそのくちです。
 人間の歴史をみると、戦争の無い時代は殆どないのです。ということは、以外に人間は悪い事のほうをよくするものなのかもしれません。
 考えれば、人間は良い事もするが、悪い事もするものです。つまり、人間の心には『善と悪』が存在してるということになります。
 それでは、人間というものは『性善説』が正しいのでしょうか、それとも『性悪説』が正しいのでしょうか?

【人間は性善説?性悪説?】

 ここで、【善我と偽我】と書いてあることに注目してください。普通なら【善我と悪我】と書いてもいいはずです。善と悪というのなら、上下・表裏・男女というような陰と陽の関係のようにみえますが、善と偽なら少し違ってくるのです。善偽というより、真偽と言った方がわかりやすいかもしれません。「真偽の程は定かでない」と私達はよく言うように、真偽とは、まことかいつわりかということです。
 陰と陽というのは、二つで一つなのです。しかし真と偽は二つで一つということではありません。真とは『まこと』ですが、偽とは『まことではない』という意味なのです。つまり、陰陽の関係ではないのです。そうすると、善と悪の関係も同じように考えれるのです。
 善は善ですが、悪は『善ではない』ということで、陰陽関係ではないというように考えれるのです。では、どのような関係なのでしょうか?
 その前に、光と闇で説明してみましょう。実は、光と闇も陰陽関係ではないのです。
 「そんなことはないでしょう。日向と日陰は陰陽関係でしょう。それに聖書の創世記にも次のように書いてあります。『神は言われた。光あれ。こうして光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった』これは正に陰と陽のことでしょう」と、このように反論される方がいらっしゃると思います。
 ところが光と闇だけを見ると、陰陽ではないのです。三次元世界で光をあてると、例えば地球では、太陽からの光が当たっている部分と当たっていない部分が出来るので、陰陽だといえるでしょう。その二つで一つの地球です。
 しかし、光と闇とだけをいうと違うのです。光は光です。しかし闇は『そこに光の無い状態』というのです。光と闇で一つではないということです。つまり、陰と陽の関係ではないということです。
 さて、このように善と悪をみますと、『善とは真を現している状態』をいい、『悪とはそこに真を現していない状態』というのです。
 真が絶対的なのです。
 人間が善悪を現すと、善人と悪人というように相対関係になるのですが、善悪だけを見ると相対関係ではないのです。つまり、悪という実体は、本来無いということになるのです。
 このように考えると、人間は当然『性善説』が正しいということになるでしょう。

【道徳教育だけではダメ】

 このことをまず理解しないと、私達人間は悪い事をするのも、その人の自由になるのです。まして、子供達の教育の中で「悪い事はしないで良い事をしましょう」と教えても、「人間はどうして良い事をしなくてはならないの?」と質問されたら、はっきりとした回答は出せないはずです。
 特に最近は個人主義というものが広まり、『個人の自由を束縛する権利は誰にもないのだ』という考え方が増えてきました。このために、権利と義務の有り方がわからなくなってきたのだと思います。
 権利の場合は日本国憲法に、基本的人権として『平等権、思想・信教の自由、集会・結社・表現の自由、社会権、拷問の禁止、黙秘権』等規定されていまが、義務については、『教育の義務、勤労の義務、納税の義務』等、またこれ以外、法的な拘束ぐらいしかうたわれていません。つまり、人間としてしなければいけない道徳的な義務は、法律ではうたえないのです。その為に権利ばかりを主張して、人間としての義務を忘れている人が多くなったのではないでしょうか。そこでこれからの教育には、人間はどうして良い事をしなくてはいけないのかを教えていかなくてはならないでしょう。
 しかし、いくら道徳教育で『人のふみ行うべき道』を説いても、「人はどうしてそのような事をしなくてはならないの?道徳性を持って生きるも、道徳性に反して生きるも個人の自由ではないの?」と言われたらどうでしょう。このように、道徳教育だけで完全に子供を納得させるのは無理なのです。これからは『正しい宗教』を教育しなくてはならないでしょう。
 宗教というと、なにか誤解されるでしょうが、ここでいう宗教は、従来の他力宗教のことではないのです。【宗】という字は、『宇宙を示す』書くように、自然の不思議さや自然の心をいうはずです。また、宇宙と人間の関係なども含まれるでしょう。
 つまり、宇宙科学と人間の魂について勉強することが、ここでいう宗教なのです。宇宙科学については、反物質の世界(あの世)を研究していき、人間の魂については、魂の中心(神)を研究していくようになるでしょう。
 そうすると、宇宙は元々善なのか悪なのかがわかり、人間の魂も本来善なのか悪なのかもわかってくると思います。

【根っからの悪人はいない】

 さて先程の話しに戻します。『悪は本来ない』ということですが、水で説明しますと、水はどのような物質も溶かしますし、また器によってどのような形にもなります。しかし、水の結晶は六方晶系で、それぞれの結晶の形は違いますが、いつも同じ形を保っています。つまり雪がそうです。
 ということは、水は本来綺麗な形をしているものなのです。ところが、毒を溶かすと毒入りの水になり、歪んだ器にいれると歪んだ形の水になるということです。水そのものには、『汚い水や臭い水(悪)』は本来ないということになります。この水を人間に置き換えると、人間は真我といって、本来綺麗なものなのです。しかし、環境や教育・思想・習慣によって色々な形に変わってくるものなのです。
 人間の本来の姿を現しているのを【善】といい、人間本来の姿を現しきっていないことを【悪】というのです。先程も言いましたように、悪という実体はないのです。
 一般的な言い方をしますと、悪人は存在しますが、根っからの悪人はいないということになるのです。
 しかし、世の中には根っからの悪人のような人間もいるはずです。このような人はどのように考えるといいのでしょう。ここで、『生命は永遠に輪廻転生している』という考えが必要なのです。
 根っからの悪人でも、魂の中心は【真我】なのです。でもその真我が現せないのは、輪廻転生の数が少なくて、真我をうまく現せないでいるのだと考えれます。つまり、人生の経験が少ないのだと考えれるのです。
 心には、宇宙の法則と同じ法則が働いているのです。宇宙の法則では、『原因と結果の法則』や『慣性の法則(同じ方向に進み続けようという力)』等が働いています。心にもそれと同じ力が働いているのです。それが、仏教でいう【業】といいます。その心に働いている、原因と結果の法則や慣性の法則等が、人間の本来の姿である真我を現しにくくしているのです。つまり、悪い原因をつくると悪い結果が現れ、また悪い癖をつけると悪い癖がついてしまうのです。
 そのために、過去の輪廻転生の経験のなかの色々な悪い原因や悪い癖が、現世で出てくるのです。それが、良いことをするより、ついつい悪いことをしていまうという理由なのです。
 私達人間が本来の真我の姿を現すには、善の原因や善の癖をつけていく以外に方法はないはずです。そのために、善行を積んでいくことが、人間としての使命であり義務なのだということです。そして、それが自分自身の喜びになるのです。
 人に良い行いを勧めて、「どうして良い行いをしなくてはいけないのか?」と質問されても「もともと人間は良いのだから良い行いをするのは当然でしょう」と答えられるのです。

【他力信仰はナンセンス】

 人間は、自分が本米持っているものを表現できることが喜びなのです。自分が本来持っているものをうまく表現出来ないことは、苦しみになるのです。だから人間は悪い事を続けていくと、苦しみが襲ってくるということになります。
 人が人生で苦しむと、よく他力信仰の宗教にかけ込みます。そして先祖供養が足りないとか、布施が足りないといわれて、あわてて先祖供養を依頼したり布施したりしてお金で解決しようとします。
 人間の本来の姿がわかると、そのような行為はナンセンスだといえるでしょう。人間が苦しみから解脱をするには、日常の行為を改める以外に方法はないのだということを理解して頂きたいのです。他力信仰に入れば、他力という原因や癖がついてまわるだけで、教団から言われて、無理やり善行をして救われようとして、押しつけがましくなったり、世間からはじきだされたりするのです。人間の真我がわかると、喜んで善行をしたり、また見返りを望まなかったりすることは、当然なのだとわかるのです。
 まずこのことを知ってから、自分を見つめる反省瞑想から入ってください。反省とは、仮に取り返しのつかない悪い事をしても「本来自分はこのようなことをする人間ではない、本来なら○○というような行為をするべきだった」というように、真我の自分を大前提にして自分の行為を改めていく、前向きな姿勢なのです。
 この反省をして、行為に現すことによって、善我の自分が徐々に現れてくるのです。
 善我の自分が現れてくることによって、自然に宇宙の真理がわかり、また人の心がわかるようになるということでしょう。つまり、過去・現在・未来がわかるようになる観自在菩薩だということです。
 このように見れば、さきほど言いました他力信仰や超能力を求める心は、善我と逆の方向に向いているのがよくわかって頂けると思います。
 瞑想とは真我の自分を見つめることで、善我とは真我の自分を行為で現そうとすることです。

【気功とは】

 私は八年間、中国気功養生院で気功というものに携わってきました。その気功も最近では、病気を治すだけの目的になりつつあるのが少し残念な気がします。
 本来、仏教・儒教・道教の流れをくんで、中国で伝わってきたものです。その小中に病気治癒も含まれていたのです。つまり、精神と肉体の健康を求めてきたはずです。ところが最近は【気】というものだけが一人歩きして、何か魔法のような扱いをされています。
 気とは、精神の気がわからないと、本来の気と違った方向へ進んで行ってしまうのです。気功には、【動功と静功】があり、動功は主に肉体的健康法で、静功は主に精神的健康法です。この精神的健康法とは、ただリラクゼーションするだけとか、精神統一をするだけの目的ではないのです。
 気功には、『練精化気・練気化神・練神還虚』という言葉があります。これは、肉体を練ると陰陽のバランスが整い、陰陽のバランスが整うと、精神が安定し、安定した精神で思考を巡らすと真に戻るということなのです。つまり、心の向上が、気功の目的だと言えるでしょう。また人生の目的だとも言えます。病気を治すことも大事ですが、病気になった原因をさぐって、自分の生き方や考え方などを変えることが、最も大切なことなのです。
 大きな病気を経験することによって、人生観が良い方に変わった人は、世の中にたくさんいるはずです。それを、最近の宗教や気功は、ただ病気直しだけやストレス解消だけに主体をおいている傾向です。
 肉体は、自分の真我を現していくための乗り物だと考えれば、たしかに肉体の健康は必要不可欠です。しかし、肉体の健康ばかりに重きをおいていると、本来の自分を見失うのではないでしょうか?特に最近は健康ブームです。しかしそれに反して、世の中の乱れはどうでしょう。未成年の凶悪な事件や自殺、また政治家や警察の不祥事等々が多発しています。健康ブームといっても、それは肉体の健康が殆どで、精神の健康はリラクゼーションくらいです。つまり、物質主義になってきているということなのです。
 こういう時期こそ自分というものを見つめて、人間の本質というものを知っていくべきではないでしょうか。

           ・あとがき・

「気は心シリーズ」も本章で取り合えず、最終回にさせて頂きます。
皆様には乱文のため理解して頂きにくかったかもしれません。でも私が一番言いたかったことは、心の問題です。
 今から十六年ほど前のことですが、私は、仕事的にも精神的にも行き詰まりどうしようもない時に、ある一冊の本に出会いました。以前にもご紹介した、高橋信次先生著の『心の発見』という本です。
 この時はあまり意味がわからなかってのですが、とにかく全ての苦しみは心が原因なのだということだけはわかりました。それからずっと心の問題について勉強をしてきたつもりですが、勉強すればするほど心の偉大さに気付かされます。ただ、今だに知識だけが先行して、知慧となるべき行為が悲しいかな伴っていません。でも、理論だけは高橋先生や園頭先生(本書十三章参照)の御著書のお陰で、自分なりに自信があるつもりです。
 全ての悩みや苦しみ、また宇宙の全てのエネルギーや、それに気功でいうところの気というものは、『心』がつくりだしているのです。その心の現れが、肉体であり行為なのです。つまり、いま現在の世の中が乱れているということは、心に原因があるということなのです。
 しかしこのような世の中だからこそ、心の偉大さに気付けるチャンスなのかもしれません。是非皆様もこの時期に心の素晴らしさ、偉大さを勉強して頂きたいと思います。


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