第 三 十 三 章



男女U 


【宇宙の陰陽理論】 

 さて今回は、男女の役割を宇宙の陰陽理論に基づいてお話ししていきましょう。
 以前にも陰陽理論は、何度もお話ししてきたと思いますが、ここでもう一度宇宙の陰陽理論について復習してみましょう。
 この宇宙のすべては、何かと何かの【関係】において成り立っているのです。『天と地・光と影・心と物質・男と女・時間と空間』また『人間と植物・植物と動物』や『火と水・水と木』・・・等々、この宇宙のすべては、相互関係の中において存在できているのです。そしてこの関係が陰と陽の関係なのです。別の言い方をすると『能動形』と『受動形』の関係と言います。
 このことを大地と種子の関係であらわしますと、大地は受動形で種子は能動形ということになります。大地は種子を育み助けています。また種子は大地により育まれ助けられているのです。つまり、受動形とは能動形を育み助けていると言えるのです。またこの陰陽関係は、相手や立場によって変わるのです。
 例えば、男女の関係においては、男が陽で女が陰になりますが、社長と社員の関係になりますと、社長が男性でも陰になり、社員が女性でも陽になるのです。この宇宙のあらゆるものには、例外なく陰陽関係があるのです。そして相手により、役割を変化しているということです。
 どうしてそのようになっているのかというと、何ごとも自分中心に考えていると、宇宙のバランスが保てないために、それぞれが相互関係を計って宇宙の調和を保っているのです。
 わかりやすくいうと、それぞれが相手によって、ある時は能動形になり、ある時は受動形になりして関係を保っているということです。
 男が陽だからといって、どんな立場でも男が女性に対して陽であったら、世の中のあらゆる関係が成り立たなくなるのです。私達はこの陰陽関係をよく理解して、あらゆるものの関係を良くしていきたいものです。

【あまり知られていない陰陽理論】

 ところが陰陽関係には、能動形・受動形の関係だけではなく、普段あまり重要視されていない大事な法則が二つあるのです。一つは【陽主陰従】という法則、もう一つは「陰中に陽有り、陽中に陰が有る」という法則の二つです。
 この二つの法則は、どういうことをいっているのかを説明しましょう。
 まず陽主陰従の方は、文字通り陽が主で陰が従ということですが、主従関係とは主が上で従が下だということではないのです。主とは中心なるもので支えられるものをいい、従とは周りのもので支えるものをいうのです。それにまた主とは、変化しないものをいい、従とは変化するもののことをいうのです。(本書十六章〔平等〕参照)
 例えば食事でいいますと、主食はいつも変化しませんが、副食は変化するものです。また食事の中心は主食ですが、おかずの質によって食事が美味しくもまずくもなるのです。このように、主従関係とは宇宙のあらゆる関係にあるのです。
 では、もうひとつの「陰中に陽有り、陽中に陰が有る」を説明しましょう。
 男性が陽で女性が陰だといいましたが、ところが男性の中にも陰があり、女性の中にも陽があるということになるのですが、これはどういうことでしょう?
 私達人間は、肉体だけではなく、心というものがあるのです。つまり心と肉体も陰と陽の関係なのです。ということは、男性は肉体的には陽ですが、精神的には陰ということになります。
 すると女性はその逆で、肉体的には陰ですが、精神的には陽ということになるのです。
 このことから、現象的・肉体的には、女性は男性を中心にして回転しなければならないのですが、生命的・霊的には女性が中心であって、女性のために男性は回転しなければならないのです。
 このことにより、男女の関係が平等であるといえるでしょう。人間は、三次元的にしかものを見ないことが多いので、つい男性のほうが優位であると思い、男尊女卑的な考え方が生まれてきたのでしょう。

【全ての関係は陰陽関係】

 この法則は森羅万象にあてはまるのです。
 たとえて言えば、経営者と従業員の関係です。精神的・身内的に見れば、陰陽関係は経営者が陽で従業員が陰でしょう。従業員は陰の役割通り、経営者を中心にして回り、慕い尊敬しながら組織をもり立てていきます。それに、従業員の職場は規模や年数により変わっていくものです。それとは逆に、経営者は陽の役割通り、従業員によって助けられ、いつまでも中心的存在で変わらないものです。
 ところが、経営者と従業員の関係を仕事的・対外的みれば、陰陽関係は経営が陰で従業員が陽になるのです。なぜなら、仕事的にはいつも従業員が組織の中心で、仕事に対する姿勢はいつも能動的で、変化しません。そして経営者に支えられることによって仕事を伸ばしていくのです。
 まさに、従業員は陽だといえるでしょう。逆に経営者は、いつも陰から従業員の働きを見守り、従業員の働きやすい環境を考えている従業員の助け手なのです。そしていつも従業員を愛し、育てるためにある時は叱りまたある時は褒めたりと、色々に変化します。まさに経営者は仕事的に見れば陰と言えるでしょう。
 また、スポーツの場合をとりますと、野球のピッチャーとキャッチャーの関係がわかりやすいと思います。現象的・対外的には、ピッチャーが能動的の陽で、キャッチャーが受動的の陰のはずですが、内面は、キャッチャーがサインをおくりピッチャーをリードしているのです。つまり、内面は逆でキャッチャーが陽でピッチャーは陰になるのです。このように、あらゆる関係に「陰中に陽あり、陽中に陰が有る」という法則がはたらいているのです。
 さて、男女の関係に話しをもどします。
 さきほど言いました、「現象的・肉体的には女性は男性を中心にして回転しなければならないのですが、生命的・霊的には女性が中心であって、女性のために男性は回転しなければならないのです」という意味をもう少し詳しく説明しましょう。
 この宇宙の究極の陰陽は、神(自然)と人間です。そして神と人間を陰陽に分けると、現象的・三次元的には、人間が陽で神が陰になるでしょう。なぜなら、人間はこの宇宙をより調和にしていくことにいつも能動的で、それを回りから援助し育ててくれるのが、神である自然の心だからです。だから人間は自分自身で頑張ったことでも、「お陰様で」といつも感謝をするのです。
 ところが、霊的・四次元的には、神が宇宙の中心(陽)となり、人間は神の喜びのための援助者(陰)になるのです。そのために、宗教的には人間は神の子といわれるのでしょう。

【男は人・女は神】

 この神と人間の関係を三次元的に現したのが、男と女の関係なのです。
 先々章でも参考にしましたが、もう一度ここで、聖書の創世記2章18節を見てみましょう。

◇ 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」・・・(中略)
 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。・・・(中略)
 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。・・・(中略)◇

 以上の箇所を読まれてどうでしょう。
 神と人間の関係が究極の陰陽ならば、人間にも陰陽がなければ万物は広がっていきません。そこで神は、人間自身にも陰陽をつくられ、陽の役割、つまり神と人間の関係における人間の役割を男とし、陰の役割、つまり神の役割を女とされたのだという意味にとれないでしょうか。
 あばら骨とは内臓を守っている大事な骨です。その一部から取ったとは、まさに援助者にふさわしい場所だと言えます。
 それに、最後の「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」という意味をよく考えてみましょう。
 「男は父母を離れて女と結ばれ」という箇所だけをを読むと、男だけが父母から離れてと書かれて、どうして女は父母から離れてと書かれていないのかを不自然に思いませんか。そのまま読むと男尊女卑のようにもとれます。しかし、よく考えて読むと、父母から離れるとは、創造者つまり神から離れという意味になります。そうすると、神から離れて女と結ばれるというところの女とは、神の代役ということになるのです。
 所謂、神と人間の調和の形を、男と女の調和の形で現そうとしています。
 また、「こういうわけで」とは、神と人間の調和の形を、親子から夫婦へまた親子から夫婦へと、繰り返すことで現していると言えるでしょう。このように、女性は神の代役だということがわかると、男性が妻のことを「かみさん」とか「おくさん」と呼ぶという気持ちがよくわかるのではないですか。それに、女性は昔からアマ(天)と呼ばれる意味も納得できます。
 つまり女性は男性にとって、人間に対する自然(神)のように、陰になり日向になって支える陰の役割だといえるでしょう。これが、「現象的・肉体的には、女性は男性を中心にして回転しなければならない」という理由なのです。また生命的・霊的に見ればその逆で、神と人間の関係は神が陽で人間が陰になるように、女性が陽で男性が陰となります。
 男性は、人間が神を敬い慕い崇めるように、女性を生命的に敬い慕い崇めなければならないはずです。
 それに女性が神の代役であるという最も大きな証拠は出産です。神が人間を創造したのと同じように、神は女性にその役割を与えたといえるでしょう。
生命的に男性が陰である証拠に、性生活や出産を見れば、男性は女性の援助者であることが明らかにわかります。
精神的には、女性のほうが男性をリードしたほうがよいという証拠に、「一つ勝りの女房は金の草鞋で探しても持て」「姉女房蔵建つ」「姉女房は身代の薬」等々のことわざがあります。

【男性を導くのは女性】

 また、聖書の創世記を参照しましょう。
 3章11節より、
  

◇ 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
 主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。・・・(中略)」
 神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。・・・(中略)」
 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。・・・(中略)」 ◇

 以上の箇所は、精神的には女性が陽で、男性が陰であることが書かれてあると思います。
 なぜなら、神はアダムに、神の命じた約束をどうして破ったのかを問いただすが、アダムは女のせいにし、女は蛇のせいにします。これはよく考えてみると、この箇所は男は女のいうことに影響を受けるという譬えではないでしょうか。つまり、女が陽で男が陰であることをいっていると思います。
 そして、蛇とはサタン、つまり悪のことです。ここでいう悪とは、物質に執着する心を持つという意味のことです。
 蛇は地を這いまわるとありますが、地とは物質の象徴で、這いまわるとは物質に執着をもっということになります。つまり、蛇には悪いのですが、蛇とは人間にとって物質に執着する醜さの見せしめにつくられた動物だといえるでしょう。その証拠に、蛇は校滑で執念深く、地球上における歴史も長いのです。また進み方も波動の形でエネルギーを表しているのでしょう。

 またつぎに書かれてある意味が大事だと思います。

「・・・(中略)お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。・・・(中略)」

 ここでお前とは蛇のことでしょう。すると神は、蛇と女の間を永遠に憎むことの意味になりますが、どうして女だけで、男と蛇の間は触れていないのでしょうか。そのまま意味を解釈すると、どうも納得ができません。何度も言いますが、蛇とは悪の譬えです。男と悪の関係はなくて、女と悪の関係だけがあるというのは、男女平等論から言ってもおかしいはずです。
 この意味を、精神は女性が陽で、男性が陰だという理論に当てはめますと、わかると思います。
 女性は男性を正しく導かないと、女性が物質に執着することによって、男性が影響をうけて悪の道に入るのです。そのことを戒めているため、女性が悪に影響されることを、神は永遠に嫌ったのだといえるでしょう。
 その後、神は罰として、どうして女に生みの苦しみを、どうして男に仕事の苦しみを与えたのでしょう?これは、女も男も執着を持ったらどうなるかという戒だと思います。出産は本来苦しまないものではないでしょうか。
 最近、ラマーズ法出産だとか水中出産だといって無痛分娩がマスコミなどで取り上げられています。これは、夫婦一体で呼吸法をしたり、また水中でリラックスしたりして産む出産法だと聞いています。つまり、体がリラックスして執着から解放されると、体は自然に力が抜けて痛みを伴わないのです。
 また、仕事も本来楽しく出来るものではないでしょうか。お金に執着したり、名誉に執着すると、仕事も苦しみになるのです。
 どうも聖書の解釈一つで、神からの罰にとれたり、こだわり執着による自業自得にもとれたりします。自業自得は仏教の専売特許ですが、聖書も仏教も実は同じことをいっているのかも知れません。
 
【仏教も男尊女卑?】

 ところが、その仏教でも男尊女卑的発想があるのです。
 古来仏教では、女性は死んでも極楽往生ができないし、またそればかりか、修行の邪魔者と考えられていたのです。五障(梵天・帝釈・魔王・転輪王・仏の五者になれない障りがある)と三従(幼年は親に従い、結婚しては夫に従い、老いては子供に従う)のためといわれています。
 空海の開いた高野山でさえ、以前は女人禁制だったのです。
 ところが、『変成男子』といって、女性は南無阿弥陀仏の名号を唱えて息を引き取れば、男性となることができるといわれ、阿弥陀様は男性になった女性を極楽往生をさせるというのです。なんと、仏教は男女不平等な考え方なのでしょう。今ならどこかの婦人団体がだまっていないでしょう。
 しかし、これも陰陽理論にあてはめてよく考えてみましょう。
 男子の修行の邪魔とは、言い換えると、男性は女性に影響を受けるのだということになります。また、親に従い、夫に従い、子に従うとは、まさに援助者、陰の役割ではありませんか。それに、女性が一旦男性に変わるという発想は、さきほど言った人間と神の関係が男と女の関係と同じであるということに係わってくるのです。
 男性にとっての女性は、神の代役だと言いました。そのため女性が人間として悟るには、一旦男性になるのだと考えれば納得がいくのではないですか。
 以上のように、聖書も仏教も解釈のしかたで男女平等になり、またそれぞれ役割がちがうのだということがよく理解できるはずです。
 最近『男らしさ、女らしさ』を差別用語だという風潮がありますが、はたしてそれで正しいのでしょうか。前回ご紹介した二例のどちらの意見を皆様は賛成されるでしょう。
 次章は【機】というテーマでお話ししていきます。


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