第 三 十 一 章



 


【大我と小我】 

 私達は法(自然)にさからうと反動をうけるようになっているのです。では、どうして私達は【法(自然)】に逆らってしまうのでしょうか?それは私達の意識の中の【我】というものが原因しているのです。その我について今回は一緒に考えてみましょう。
 まず【我】という意味を広辞苑で調べてみましょう。

【我】
@われ、おのれ。自分自身。
A思う所を言いはって、人の言に従わないこと。ひとりよがり。きまま。
B自我の根底にある実体的・霊魂的存在。アートマン。また、一般的に事物の根底にある永遠不変の実体。仏教ではこのような我を否定し、無我を主張した。
とあります。またインド哲学ではアートマンというので、アートマンも調べてみます。

【アートマン】・・・インド哲学の根本原理の一。もと呼吸・生命原理を意味し、のちに個人の心身の活動の基礎原理、すなわち自我の本質・霊魂を意味するようになった。ウパニシャッドの哲学では、このアートマンがブラフマン(宇宙の根本原理)と同一であることが究極の真理と考えられた。
 
 と、以上読んでみられていかがですか。特にアートマンなどは少しわかりにくいのではないですか。
 私達は一般に我といえば、『我を張る・我を出す・我が強い・我が儘』といったように悪い意味の言葉で使われています。ところが、本書六章(意識@)でお話ししたように、私達の意識は宇宙と同じ大きさがあるのです。これほど素晴らしい自分を出すのがどうしていけないことなのでしょうか?
 それには、我を【大我】と【小我】にわけて説明していく必要があるのです。
 まず大我と小我を広辞苑で調べてみましょう。

【大我】
@永遠なる真如の自在のはたらき。和解の称。真我。
A宇宙の本体として唯一絶対な精神を想定する形而上学説において、その本体を個人の我に擬していう語。

【小我】
@自分一個にとらわれた狭い我。
A宇宙の絶対的な我と区別した自我。
 
さて、これだけで我というものが理解できたでしょうか。またこれもなにかわかったような、わからないような感じではないですか。
 
【大我とは神の心】

 ではここで、もう一度【自分】というものを、つまり自分の意識というものを考えてみましょう。
 皆さんは、「自分なんてこの宇宙からみたらちっぽけなものだ」と思っているのではないですか?当然、肉体的にみると、自分の肉体なんてこの宇宙からみればチリ以下のちっぽけなものでしょう。しかし、自分の意識はそんなちっぽけなものでしょうか。
 よく考えてみてください、この宇宙は大きくて自分なんてちっぽけなものだと思っているのは、自分の意識なのです。また、誰々は良い人で、誰々は悪い人だと思っているのも所詮自分の意識なのです。
 それに、この世には神がいて、全てを支配しているのだと考えるのも、この世には神も仏もなくて、全て偶然なのだと考えるのも、どちらも自分の意識の中なのです。
 このように考えると、この宇宙のもの全てが自分の意識の中なのだと言えるでしょう。
 言い換えると自分の意識は宇宙と同じ大きさなのだということになります。
 と、いうことはこの宇宙の全てのものは、自分だということです。このことを理解すると、自分を大切にすることは、この宇宙の全てを大切にすることだと分かってきます。
 この立場から、ものを見れる自分が【大我】なのです。また逆に、このことに気づかずに自分は自分、他人は他人と区別した立場で物事をとらえる自分が【小我】なのです。そして、ほとんどの人がこの小我から物事をとらえているのではないでしょうか。
 この小我の立場を『相対感』というのです。
 「自他・大小・多少・長短・高低・明暗」等々の陰陽の世界が本当の世界だと思い、「他人より自分が大事」「少ないより多いほうが良い」「低いより高いほうが良い」等、自分の都合でものを考える心です。ちょっと考えると、この小我の考えかたで普通ではないかと思いがちです。しかし、この小我が苦しみを生み、病気や不幸をつくり出しているのです。
 前回も言いましたように、宇宙にも心にも法則が働いているのです。そしてこの法則は、宇宙も心も一つだという前提でつくられているために、小我が働くと反動を受けるのです。
 仏教では「諸法無我」と言います。これは、自然の法則には我という実体など無いという解釈もできますが、つぎのようにも解釈ができます。「自然の法則には人間がもつ小我などは無く、宇宙も心も一つであるということを知っている大我のみが存在する」
 そうすると、大我とは神の心と言ってもさしつかえないでしょう。

【小我には反動がある】

 最初に言いました『我を張る・我を出す・我が強い・我が儘』などは、小我のことだとわかって頂けるでしょう。
 以前にご紹介した高橋先生は小我のことを【偽我】とおしゃっています。
 なぜなら、本当の自分は、宇宙と心は一つであることを知っているのです。それをそうではなくて、相対の世界が本当の世界だと誤解している自分は偽った自分なので、偽我と言われるのです。
 自分の心の中には、たしかに大我と小我があるのです。この大我を【真我】と言い換えれます。その真我を現そうとする自分を【善我】と言います。
 少しややこしくなりましたが、要するに私達の心には、真我といって宇宙と自分は一体であることを知っている自分と、それを現そうとする自分と、そのことを忘れた自分がいるということなのです。これが、真我・善我・偽我です。
 『真・善・美』という言葉があります。これは、真実なるものを現すと美しいという意味なのです。宇宙の姿つまり自然の姿はそのままで美しいのです。
 ところが、真実でないものは偽ったものなので、真・善・美の反対『偽・悪・醜』となるはずです。私達は真実でない偽我をだすと悪であり醜くなるということになります。つまり、『我を張る・我を出す・我が強い・我が儘』だと不幸になり、病気になり、醜くなるということです。
 男性の場合、仕事をする時、我を出せばうまくゆかず失敗につながるということです。
 とくに経営者は我を出せば、一時はうまくいっているようにみえても必ず反動を受けて失敗するのです。このようなことをまとめて、「経営者は大所高所からものを見よ」というのでしょう。
 また、女性が育児や夫に我を出せば、子供からいずれ反抗されたり、夫に浮気をされたりすることが多くなるのです。なぜなら、我というものには反発がつきものだからです。それに、女性には大切な美しさがそこなわれてくるのです。

【小我を無くすのは母性本能】

 では、どのようにすれば我を出さないで生きていけるのでしょうか?
 それには真理を知り、日々精進努力をすることです。と、言ってしまえば簡単なことですが、実際にはなかなか難しくてそんな簡単に真理など悟れないものでしょう。
 そうすると、私達は我というものから、解放されずにずっと苦しまなければならないのでしょうか?
 もっと簡単な方法で我の少ない安らかな生活が出来るはずではないでしょうか。
 それが、【母性本能】です。母性本能とは、女性だけに与えられた特別の本能なのです。この母性本能について詳しくは、本書十七章(愛)を参照してください。
 母性本能とは、見返りを望まない無所得の愛、つまり神の愛のことなのです。そして、女性が母性本能に目覚めることが、我を無くすための、唯一簡単な方法なのです。
 ここで、気は本書十七章(愛)の中から母性本能についての箇所を次に紹介します。
   
 ・母性本能には自己弁護はない
 ・母性本能には立場はない
 ・母性本能には報奨はない
 ・母性本能には自我はない
 ・母性本能には甘えはない
 ・母性本能には苦しみはない
 ・母性本能には楽しみはない
 ・母性本能には神の心しかないない
   
 どうでしょう、母性本能の素晴らしさがわかって頂けたでしょうか。そして、その母性本能は女性にしか与えられていないのです。母性本能が神の心であるなら、母性本能は大我の立場だといえるのです。この大我の立場から育てられるのが、男性なのです。
 釈迦やキリストのように、修行をして真理を悟っていかれる魂もあるでしょうが、我々凡人にはなかなか難しいものです。しかし、母性本能を通じてなら、男性はより早く悟っていけるのではないでしょうか。
 釈迦やキリストでさえ子供の時は、母性本能によって育てられているのです。

【動物の母性本能】

 この母性本能の素晴らしさを知るには、動物の世界を見ればよくわかると思います。なぜなら、動物には妊娠して子育てをする、ある一定期間しか母性本能は与えられていないからです。
 その実例をちょっとお話しましょう。私事になるのですが、我が家ではバグ犬を雄雌と二匹飼っております。その二匹が先日めでたく夫婦になり無事出産をしたのです。無事出産といいましても、雌バグ犬は体が小さいうえに五匹も妊娠しているために帝王切開で出産をしました。
 動物は自然分娩のなかで胎盤を食べたり、子犬を嘗めることによって母性本能がでるのだと聞いておりましたので、私達は少し子育てに心配したのですが、子供達がおっばいを我先に奪い合う行動に目覚めたのか、少しずつ母性本能が目覚めてきました。
 人間なら手術の後、患部を人につつかれたら、痛みで飛び上がってしまうでしょうが、母性本能に目覚めた動物はいやがりもせず、こども達におっばいが飲みやすい姿勢さえとっているのです。そこに、父親である雄バグ犬が近づくと、まるで他人でも来たような雰囲気で警戒するのです。父バグは、ただ遠くから、なにか珍しいものでも見るようにうろうろしているだけなのです。
 二十数年前になるのですが、妻が子供を出産した時にも、私はただうろうろしていただけで、なんの役にもたたなかったことを思い出し、出産時や子育ての時の男性の無力感をただ感じていました。
 それに驚いたことは、母バグは、我が子の大小便を口で吸い出してやり、きれいに食べてしまうのです。父親では考えられない光景です。そして、二か月経った頃には子犬たちも元気に走り回るようになり、離乳食を元気いっばい食べるようになるまでに育ちました。
 ある日、父バグの食事の時に、一匹の子犬が横から父親の餌を食べようとしたのです。すると普段おとなしい父バグが、猛烈な勢いで子犬に襲いかかっていったのです。当然子犬は驚いて「キヤンキャン」と悲鳴をあげながら逃げ回ります。それを見ていた私達は、あわてて抱き上げて落ち着かせたのですが、その声を聞いた母バグの母性本能が、子犬の危険を察知して蘇ったのか、部屋から玄関からあちらこちらと子犬を探し回るのです。その時の母バグのうろたえようは異常なほどでした。私は母性本能のすごさを、まのあたりに見せつけられました。
 今では子犬も生後三か月になり(平成十一年八月十五日現在)、五匹のうち三匹は養子先も決まり、家には二匹が残っています。
 ここが動物と人間の違いでしょうか、三匹減っても別に探す様子もなく平然としているのです。ところが、いまだに子供の大小便をみると食べようとするのです。
 そのうちに、母バグの母性本能も消えてゆくのでしょう。先程も言ったように、動物の母性本能はある一定期間しか与えられていないので、普段との違いがよくわかります。

【母性本能は女性だけに与えられている】

 このように、素晴らしい母性本能は女性だけに与えられているのです。まして人間には動物と違って、生まれた時から死ぬまでずっと持っているのです。その証拠に、子供でも女の子は妹や弟が出来ると、面倒を見たがるようになったり、また思春期になり彼氏ができると、つい彼の世話をしたくなるものなのです。これが母性本能のなせるわざなのです。
 母性本能とは、慈しみ育むことのみを目的とするのです。ところが、母性本能に我が入ると、子供を溺愛し、だめにしたり、独占欲が強くなり嫉妬心に変わってくるのです。男性にも嫉妬心が強い人がいますが、女性とは質が違うのです。男性は陰陽説では陽のため、征服欲から嫉妬心がおこる場合が多いのです。
 例えばよくこんな話を聞くことがあります。「男性が浮気すると、女性は浮気相手の女性に怒りを持つことが多いが、逆に女性が浮気すると男性は浮気したその女性に怒りを持つ」
 この例の意味は、男性が浮気しても女性は母性本能があるために、先程の母バグのように、守っている物をとりにくるものに対して威嚇するのです。また、女性が浮気すると、男性には征服欲があるために、とられた物自体にこだわりがあり、浮気した本人をなかなか許さないのです。よく、女性同士の話しで、「男性は自分だけ進んで、女性がちょっと遊ぶと目のかたきのように怒る。本当に男性って身勝手なものね」ということを聞きますが、男性心理と女性心理の違いがわかるとよく理解して頂けると思います。いずれにしろ、男性も女性も我には違いありませんが。

【どうして母性本能は女性だけに?】

 小我を無くして大我の立場で人間が調和していくためにも、まず神の心である母性本能に女性が目覚めて頂いて、その愛によって男性が目覚めていくことが、この世の中を調和に導いていく唯一近道ではないでしょうか。これを読んでいる女性の方達に誤解を受けそうですが、母性本能を持っている素晴らしさをもっと理解して頂ききたいのです。母性本能は神そのものの愛なのです。それを女性だけに神は与えられたのです。では、どうしてでしょう。
 ここで、聖書の創世記を見ましょう。
   
◇創世記二章十八節〜二十五節
 「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ私の骨 私の肉の肉。これこそ、女(イシャー)と呼ぼう まさに、男(イシュ)から取られたものだから」
 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。
   
◇さて以上が聖書の有名な部分ですが、これをどう解釈するのでしょう。わたしは神学者ではありませんので、自分勝手な解釈をさせて頂くことをお許しください。
 この箇所で大事なところは、『彼に合う助ける者を造ろう』と思います。助ける者とは育てるものとも言えますし、また神の愛を与える者とも言えるのです。それに自分のあばら骨とは、心臓や心を包んでいる大事なところなので、男性にとって女性は大切なものだと言えます。つまり、男性は女性によって育てられ、神の愛を頂くのだと言えるのです。
 これは、夫婦の性生活を見ればわかるのです。男性の性器は普段から奮い立ってはいないのです。女性の愛やエネルギーによって勃起するのです。これが自然界の摂理なのです。あらゆる面で男性を立たすのが女性なのだということです。
 そして、最後の二行の『こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった』という部分も大事です。
 父母から離れてとは、神から離れてという意味にとれます。それから、女性を通して神の愛をもらい二人が調和するということです。また、裸でも恥ずかしくないということは【我】を無くしているということなのです。
 このように、神は女性をとおして男性に神の愛を流そうとしたのでしょう。その為にまず女性が本来の母性本能に目覚めて頂いて、男性に接して頂くことが小我から大我に向かう唯一近道だと思います。
 では、次章はとても大切な男女の関係についてお話ししてみたいと思います。


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