第 三 十 章



法U 


【善因善果・悪因悪果の法則は正しい?】 

 前回お話ししました、『心と物質』にはたらいている宇宙の法則について、引き続きお話ししていきます。法律は、人間が調和していくための規範です。すべての人が遵法精神で生活すれば、この世は平和なのでしょうが、法律は所詮人間がつくったものなので、法律を逆に利用して悪いことをする人があとを絶ちません。
 このように法律で裁けない人は、誰が裁いてくれるのでしょうか? と、このようなお話を、前回させていただきました。そしてこのような人を裁いてくれるのが、心の法則だと説明しました。その法則をもう一度いいますと、

 @生命、エネルギー不滅の法則
 A原因と結果の法則・・・動・反動の法則、作用・反作用の法則
 B循環の法則
 C慣性の法則
 D波長共鳴の法則・・・類は類を以って集まる
 の五つでした。

 さて、今回はABCDの法則と@の法則が混ざり合い、どのようにして悪人を裁くのかを説明してみましよう。
 では、Aの原因と結果の法則、動・反動の法則・・・作用反作用の法則と@と結びついた場合にはどのような裁きがあるのでしょう。仏教では、善因善果や悪因悪果といい、良いことをすれば、良いことがあり、悪いことをすれば、悪いことがおきると言われています。
 ところが、『憎まれっこ世にはばかる』といって現実には悪い人が得をしていることが多いと思われます。そうすると、善因善果・悪因悪果というのは間違いなのでしょうか。
 物質の世界ではAの法則が当然はたらいています。すべての物理の法則には因果関係があり、ニュートンの第三法則の作用反作用の法則が御存知のようにはたらいているのです。しかし、原因に結果がすぐに出る場合と時間のかかる場合があるのです。これが【縁】なのです。
 ところで、この縁とはどのようなものなのでしょう。「縁を切る」「緩もゆかりも無い」「縁は異なもの味なもの」「縁なき衆生は度し難し」等々、様々な言い方をします。仏教では因縁生起(縁起)といって、『すべての事物は固定的な実体をもたず、さまざまな因縁によって成立している』という思想が根本になっているのです。
 本書六・七章(意識@A)でお話ししました【場】の理論が、この【縁】というものと向じ意味だと言っていいでしょう。言い換えると、【関係】ということなのです。
 『すべての事物は固定的な実体をもたず、さまざまな【関係】によって成立している』と言い直すと理解しやすいと思います。
 関係と一口に言っても、そこにはルールがあるのです。それが、能動形と受動形という形のことです。自分と相手が同時にしゃべっても、会話にならず、一人が話していると、一人が聞くということをしない限り、会話は成立しません。所謂、能動と受動とは、『動と反動』『作用と反作用』ということになるのです。そしてその結果が調和でないと、『動・反動』『作用・反作用』が成立しないのです。能動と受動の関係に不調和があれば、反動と反作用のエネルギーは調和になるまで働き続けるのです。
 わかりやすく言いますと、人にいやがることをしても、必ず自分自身に反動のエネルギーは、つきまとうということなのです。そしてそのエネルギーは、いやがることをした人に反省して詫びる心を起こすまでつきまとうのです。このことを物質の法則で説明しますと、壁にボールをぶつける形になります。そしてボールが能動形で壁が受動形です。仮に、かたい壁にボールをぶつけると、ボールは反動の力を受けて跳ね返されます。また壁はその力に応じてひび割れしたり、崩れたりすることもあるでしょう。つまり、どちらも傷つくということです。ところが、粘土状の柔らかい壁の場合、ボールを適度の力でぶつけると、壁がボールの力を吸収してボールが中に埋もれ壁とボールが調和します。
 このような物質の法則と同じものが、心の法則としてもはたらいているのです。
 人にいやがることをしても、相手は受け入れてくれないので、反動のエネルギーを本人が受けるのです。そしてその反動のエネルギーはいづれどこかにぶつかり、衝撃をうけるということになるのです。
 ところが、先程言った『憎まれっこ世にはばかる』というように、この世で反動を受けない場合はどうなるかということです。これは、@の生命・エネルギー不滅の法則と結びついて、あの世にまで反動のエネルギーを持ち越すということになるのです。そしていずれ反動をうけるのです。
 ということは、永遠の生命からみると、善因善果・悪因悪果は正しいということになります。

【法の裁きは厳しく冷酷】

 それに、B循環の法則とC慣性の法則とD波長共鳴の法則・・・類は類を以って集まるの法則が加わってくるとどうなるのでしょう。一度動いたエネルギーは、どこかにぶつかり続けながら、永遠に動き続けるのです。悪いことを一度したら、悪い結果がでて、またその結果が悪い原因になり悪い結果をうむというように永遠に繰り返すのです。これが循環の法則です。
 一度悪いことをしたら、永遠に悪いことを繰り返すとは、考えたら恐ろしい法則です。それに慣性の法則が加わるとどうなるのでしょう。慣性とは、その運動状態を持続しようという力のことなので、悪いことを一度すると悪いことをし続けようとする力がはたらくのだということです。
 つまり、生きている時に悪いことをすると、死んでも悪いことをしようとするのです。そして波長共鳴の法則とは、類は類を以って集まるということなので、悪いことをすると自分の周りには、悪いことをする人間しか集まってこないということです。とくにあの世ではその法則が顕著に現れてきます。
 以下のように、@の法則とABCDの法則が混ざり合ってみると、悪人は永遠に救われないということになります。こんな厳しい裁きはほかにないでしょう。【法】とはなんと無慈悲で冷酷なものなのでしょう。しかし皆さん、この逆もあるのです。一度良いことをすると、永遠によいことがおこるということにもなるのです。
 本書二十七章(意識界H)でご紹介した高橋先生は『道即法即行即光』と言われました。道とは、宇宙の真理、神心ということでしょう。所謂、神の心とは【法】だということになり、その法を【行】するとは実践することです。それが【光】、つまり生命だとおっしゃっているのです。
 しかし、この法も間違うと、途轍も無く厳しいものだということも事実です。

【反省は神の慈悲】

 神とはこんなに厳しいものなのでしょうか?
 ここで、高橋先生の言葉を思い出してください。「反省は神が人間にあたえた慈悲なのです」このような言葉を、私は今まで聞いたことがありません。私は、反省ということは、たんに振り返って「ああ、いけなかった」ということにすぎないものだと思っていました。だから、反省することは人に言われてしかたなしにしていました。この言葉に出会ってから、よく考えてみると、反省とは、悪い方向に進もうとするエネルギーを、唯一善に転換できるエネルギーなのだとわかったのです。
 運動のエネルギーも心のエネルギーも、スタートは意思の力です。その意思の方向が不調和に向いていれば、永遠に不調和に向かって行くということなのです。そのエネルギーの方向を唯一変えれるのが、反省をして調和に向かおうとする【決心】のエネルギーなのです。反省はまさに『神の慈悲』だと言えるでしょう。
 このことを仏教では次のように言っています。
 『諸(もろもろ)の悪は作(な)すことなかれ 諸の善は奉行せよ 自らその意(こころ)を浄(きよ)うする これ諸仏の教なり』これは、いままで説明した法則を端的にいっています。
 しかし、現実には私達は生まれてから今まで、悪ばかり行った人もいないし、善ばかり行ってきた人もいないのではないでしょうか。
 悪いこともしてきたが、良いこともしてきたというのが現状ではないかと思います。すると、単純な計算が成り立つと思います。悪いことをした量と良いことをした量の差額が、法則の裁きということになるのですが、はたしてそのようなものなのでしょうか。

【無意識の反省】

 先程もいいましたように、一度悪いことをすると、永遠に悪いことをしてしまうという法則があるはずでした。そうするとい悪いことをした人間がどうして良いことをするのかという疑問が湧いてきます。それは、悪いことをすると私達は無意識に反省をしているからなのです。
 悪いことばかりしている人でも、弱いものを見ると、ふっと助けたくなるものなのです。なぜなら、悪いことばかりしていることは、良くないのだと心のどこかでいつも思っているからです。これが、無意識の反省なのです。この反省が反動のエネルギーを和らげているのです。この無意識の反省がなければ人間はとっくの昔に反動のエネルギーで絶滅しているでしょう。
 しかし、中には悪いことだと知らずに悪行をする人がいます。このような人はそのまま反動を受けるので、かなり厳しい法の裁きを受けるということになるのです。そのことを、仏教では 【無明】といって悪の根源だといっています。
 私達はよく「知らずにしたのだから、悪気があってしたわけではないのだから仕方がないでしょう」ということがあります。これではいけないのです。そのようなことがあった時こそ反省が必要なのです。その反省は自分自身にかえってくるからです。そのためにも、私達はまわりの調和をいつも考えて行動することに心掛けたいものです。それが、自分自身の幸せに繋がってくるということになるのです。

【法の裁きの実例】

 私事で恐縮ですが、その見本として、私の過去を例にみてみましょう。
 私は、自分の今までの人生を振り返ってみると、かなり不調和な行動をしてきと思っています。ですから私は、動・反動の法則からそれ相応の反動をうけて、既に死んでしまっていてもおかしくありません。ところが、現にまだこうして皆さんに『本書』を書かせて戴いているのはどうしてでしょう。
 それは多分、ある時期に、神の慈悲である反省ということを、まとめてさせて頂いたお蔭だと、心底思っています。いや、せざるを得なかった状況に追い込まれたからだという方が正しいと思います。
 私は子供の頃から、自分のことばかり考えていましたので、家族や人に対する配慮は殆どありませんでした。特に身内のものには迷惑をかけていましたが、悪いことだとは心底思っていなかったのです。まさに【無明】です。その反動はまともにうけるはずです。ただ、さきほど言いました、無意識の反省は当然しているはずですから、すぐに大きな反動はやって来なかったのです。
 なぜなら、学生の時は家族のエネルギーからある程度守られているものです。ところが、社会人になってからは、自分のエネルギーなのです。私は社会人になってからも、反省というものは全く無く、自分の思い通りの生き方をしてきました。
 ですから自分で会社を興した時もそうです。周りが注意するのも聞かず、自分が良いと思うと、人の意見も聞かず、借入れをどんどん増やしていく始末です。
 それにお酒が好きなもので、よく飲みに行き、さんざん遊びもしました。お酒と言えば、そこに女性がつきものです。私は、当時結婚もしており、子供も二人いたにもかかわらず、毎日お酒に女性。家に帰るのは殆ど朝帰り。仕事も遊びも人一倍していたのがこの時期でした。
 このような生活をしていると、どうなるかおわかりでしょう。
 ある日、妻が離婚届を置いて行方不明、そこにある置き手紙には、妻のさみしい心境が切々と書いてありました。私は最初冗談だと思い、あちらこちらをさがしましたが、どこをさがしてもいなく、本当なのだと気づいてからは、かなりのショックをうけました。もちろん自業自得、当然の反動なのでしょうが。
 この時に私は、三日間殆ど食事も取らず、妻について一つ一つ心からの反省をし、そして、二度とこのような自分勝手な行動はしないでおこうと決心したのです。
 妻の無事を祈り、毎日笑顔の妻の写真を前に詫び、改心することを神に誓いました。すると不思議なことに、妻から2週間で電話があり、戻ってきたのです。そして妻に今までのことを詫び、これからは真面目になることを約束したのです。
 さて、これで反動は消えて、めでたしかというと、そうはいきません。今までの数々の反動が、まだまだたまっているのです。そのうち仕事は思うように伸びず、借金は膨らんでゆき、会社は倒産、親の土地は担保のかたに。と、人生の大ピンチがおとずれます。今度は親に対して多大な迷惑をかけてしまったのです。
 私は親にどのように償えばよいかわからず、途方にくれてしまいました。「死んで保険金で」とも考えましたが、妻や子供を思うとそうもいかず、にっちもさっちもいかなくなった時、ふと高橋先生の言葉を思い出したのです。
 「自分の人生の中で、解決のつかない出来事は一切おきないのです」
 この言葉を信じて、親に対して人生に対して深く反省をしはじめました。そして、悪いところを出来るだけなくすよう頑張ろうと決心し、神に誓いました。その後、時間はかかりましたが、6年前から、迷惑をかけた母親と知的障害を持つ姉と私達家族と一緒に仲良く生活ができるようになりました。そしてその母も去年の3月に他界しました。
 とこのように、ざっと私の過去をお話しさせて戴きましたが、私は『蒔いた種は刈らねばならぬ』 『蒔かぬ種は生えぬ』ということわざの意味を痛切に感じました。
 この心の法則は、全ての人類に平等にはたらいているのです。道即法つまり神の心は【法】だという意味がわかっていただけたでしょうか。

【人を許さない心が危険!】

 神の心は法則だけなのです。その法則をどのように使うかは人間の自由です。しかし間違って法則を使う人のために、神は反省という慈悲を与えたのだと思います。
 まさに神は【愛】だといえるではないですか。
 神が裁くだとか、天罰が下るということはないのだということです。すべては自分に原因があるのです。このことを仏教では『自業自得』というのでしょう。
 神は人間を裁いたりはしないのです。まして、人間が人間を裁いたりするのは当然おかしいと思います。但し、法律という規範を犯したものは、法の反動をうけることが調和の目的のために必要でしょう。
 ここでいう裁きとは、人が人を許さないという心のことなのです。私達は気に入らないことがあるとすぐに「あの人は絶対に許さない」とか「きっとあの人に仕返しをしてやる」等と言ってしまいます。
このような心が、法にふれるのです。そしてその反動をうけ自分自身が苦しむのです。不調和な心をおこしますと、必ず私の過去の体験のように反動をうけるのです。
とくに、人を許さない心は反動がきついのです。『人を呪わば穴二つ』と昔から言うように呪いとか怒りはこの許さない心なのです。
 このように【法】というものは、調和すると素晴らしいものですが、逆らうと途轍もなく恐ろしいものです。言い換えると自然に逆らうと恐ろしいということです。
 では、私達はどうして法(自然)に逆らって反動を受けるのでしょうか?
 これが【我】なのです。
次章ではこの我についてお話ししていきます。




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