第 二 十 八 章



意識界W 


【意識は永遠】 

 前章まで4回にわたって取り上げたのは、【意識】というテーマとこの【意識界】のふたつだけです。それほど意識というものについて、私は重要に思っています。
 なぜなら、意識というものがないとなにも始まらないからです。嬉しいことも、哀しいことも意識がないと味わえません。また、楽しいことも苦しいことも味わえないのです。
 このように、人間にとってもっとも大切な【意識】というものが、「死んだらなくなるのだ」と簡単に考えてよいものでしょうか。実際に有るか無いかは、死んだらわかることですが、それよりも『有ると信じて、今を大切に生きる』か『無いと信じて、今を大切に生きる』かが重要なことだと思いませんか。それは、このふたつの考えの選びかたで、当然人生観が変わってくるからです。
 自分の意識が、死後無くなるのだと考えている人は、人の死に出会うたび人生は空しいものと感じることでしょう。よく知人や友人のお葬式のあとで、このような言葉を聞きませんか。「人間は生きているうちが花なやあ、死んだら人間はあかんなあ」
 ところが、死後があるのだと考えている人は、つぎのような言葉を聞きます。「天国に旅立ちはった、あの人にはお世話になったなあ、そのうちまたあの世で会えるやろ」と、このように死後があると考えて生きるのと、無いと考えて生きるのでは、大きく違うのです。
 「死んだら人間はあかんなあ」という言葉の中には、「人生には価値がないなあ」と言っていることと同じ意味が含まれているのです。「そんなことはないよ、自分の死後、自分はわからなくてもまわりの人の記憶のなかに自分は生き続けるから、自分の価値はあるよ」と思われるかたがいるでしょう。ところが、そう思っているのも、自分が生きている間だけなのです。つまり、そう思っているのは、その時の自己満足にすぎないということなのです。
 よく考えてみてください、物と物が作用するのには、観察者がいないと成立しないのです。その観察者は、周りの人ではなく、自分自身なのです。自分のなくなった自分の人生なんて、『無価値』だということです。
 自分は永遠だと考えて生きていくことで、自分の人生に価値を見出していけるのです。

【私達は永遠に輪廻する?】

 ところが、もうひとつ問題があるのです。生命は永遠だと考えていても、永遠の中をどのようなかたちで生きていくか、その内容によっては人生を安らかに過ごせなくなるのです。
 つまり、意識界Aでお話ししたように、私達は【六道輪廻(天上界・人間界・阿修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界)】の中で悟りを開き、そして永遠の楽園である極楽へいくのだと考えるのか、またはキリスト教のように、世の終わりがきて、神からの最後の審判をうけるのだと考えるのかということです。
 このどちらの考え方をとっても、いま現在のこの世は『苦しみの世界』だということになります。それに極楽の考え方だと、もう生まれ変わってこないのですから「自分だけ救われれば後のことはどうでもよい」といった無責任な考え方になるのではないですか。また、キリスト教のように『最後の審判』を神からうけるという考え方もおかしいと思いませんか。愛と慈悲の神が人間をさばいたりするのでしょうか。
 前回御紹介した、高橋先生は次のようにおっしゃっています。「人間は、神の子としての人格を持って、大宇宙体の各細胞とともに、神の心である大調和に、ユートピア建設のために、永遠の転生輪廻をくり返している」このように、『転生輪廻』は永遠だと言われています。それに『大宇宙体の各細胞』と言われるように、大宇宙を神の体としています。
 私達が神の体の中で、永遠に輪廻できるのは『苦しみ』なのでしょうか?否、そうではないでしょう。神の体のなかで、永遠に輪廻できるのは、最高のよろこびだと思います。
 では、どうして極楽思想や最後の審判といった考え方になったのでしょう。

【宇宙は極端なもの同士が調和しようとしている】

 そのためには、宇宙の構成を考えてみましょう。
 この宇宙をよくみると、すべて陰と陽からできています。『上下・前後・高低・明暗・男女等々』です。言い換えると、極端と極端が存在しているということです。
 たとえば『高気圧と低気圧』です。しかしこの極端同士が、まざり合おうとして風がおこるのです。
 水をみてもそうです。重力によって高いところから低いところに流れて川になります。また熱によって、低いところから高いところに水蒸気としてのぼり、雨となって高いところから低いところに降るということになります。
 つまり、極端なものどうしが調和しようとしている姿が【生命】そのものなのです。この宇宙は、写真に撮ったままの姿では調和していないのです。極端と極端が写っているだけです。お互いを埋め合わそうとして循環しだした姿が、調和に向かう生命力なのです。
 このように【大調和】に向かう姿が大事なのです。
 大調和そのものには、陰も陽もないのです。この宇宙のできる前が、大調和そのものなのです。このことを、高橋先生は「宇宙のはじまるまえは、光明という神の意識だけがそこにあった」と言っておられます。
 これを【絶対の世界】といい、喜びも楽しみも哀しみも怒りもない世界なのです。そして、この大調和をかたちにあらわすには、極端と極端をつくり、そのお互いがひとつになり調和しようとする姿しかあらわせないのです。これを【相対の世界】と言います。
 高橋先生はそれから「神は意識のなかで意思を持たれた、まず意識の世界である実在界をつくり、そこから映し出された物質の世界である現象界をつくられた」と言われます。これが最初の陰と陽です。つまり、あの世とこの世をつくり、そこを循環して神の心である大調和を目指しているのです。
 それから、「人間は、神の子としての人格を持って…」とあるように、人間は【良心】というものを全員が持っているのです。この良心が、神の心である大調和へ向かう心のことなのです。
 『良心とは、大調和へ無限に近づこうとする心』のことなのです。
 私達の心の中には、角のあるものより、丸いもののほうがよいという心があります。この【円】というものは、この三次元世界では完全にはあらわせないのです。それが、円周率です。円周の長さとその直径との比は3・14159・・・と無限になり、究極の円に近づいていると言えるでしよう。


【完全な理想の人間はつまらない】

 人間の行動にあてはめてもわかるでしょう。
 私達は毎日なにかを目指して生きています。たとえば、ある人はお金持ちに、ある人は芸術家に、ある人はスポーツ選手になりたくて頑張るでしょう。それぞれが自分の理想を目指すはずです。
 もし仮ににあなたが、一点の狂いもなく、あなたの目指す理想の人間になったところを考えてみてください。それ以上、向上もしないし、悪くもならない。最高の状態をキープしたままです。ちょっと考えると、夢のようで良いように思いますが、よく考えると喜びもなく、楽しみもなく、また怒りも哀しみもない、なにか味気ないものを感じませんか
 山登りを例にしますと、登っている途中は辛いことや楽しいことがあるでしょうが、頂上に近づいてくるにしたがって、なんともいえないよろこびがわきあがってきます。ところが、頂上についてからはどうでしょう?最初は「やった!」というよろこびがあるでしょうが、その頂上にい続けてみてください、そのうちだんだんとよろこびも薄れていくのではないですか。
 それにまた皆さんが、温泉に旅行すると考えてみてください。みんなで計画をして、旅行の準備をして、のりものに乗って温泉についてお風呂に入ります。
 さて、どの時が一番楽しかったでしょう?
 それは、現地につくまでではないでしょうか。実際に温泉につかっているときが一番たのしいように思いますが、それはほんの束の間でしょう。そのまま温泉に入り続けているとかえって辛いものです。
 
【調和を表そうとする行為が極楽浄土】

 このように、神の心である、「大調和」を目的とし、その大調和をあらわそうとする行為そのものが楽しいのです。ところが、大調和をあらわそうとする行為そのものは、見方によると苦しみにもみえるのです。そのために、仏教思想では人生を『苦』だと考えて、はやく浄土へいくことが大切だと思ったのではないでしょうか。また、キリスト教思想でも人間が神にそむいたため、苦しみを神から与えられていると考え、最後の審判を待つようになったのだと思いませんか
 まして、悟りをひらいたら、極楽浄土へいけて二度と生まれ変わってこないなどという考え方は、なんと自分勝手な考え方でしょう。
 もし、お釈迦様が生まれ変わってこなくて極楽から人々を救うというのなら、私は、お釈迦様は倣慢な方だと思います。もし、あなたの子供や友達が悩んでいたら、あなたは相談にのるでしょう。その時あなたは相手と同じ立場にたってものを考えませんか。あなたが優位な立場からものを見ていては、相手の相談にはならないでしょう。つまり、お釈迦様も私達と同じように輪廻をしないと、説得力がないということです。人間が本当に幸せを感じるのは、今この世で生きていることが最高のよろこびだと感じられない限り、幸せはやってこないのではないでしょうか。
 自分本位を棄てて、この世を調和していくよろこびを見つけた人の心が、そのまま極楽浄土でしょう。
 仏教では、「執着を捨てなさい」とか「こだわりをとりなさい」等と教えるはずです。そうしたら、極楽浄土へ早く行きたいと思う心も執着ではないでしょうか。 私達は執着を捨てて、こだわりをとって毎日を元気良く生きてみれば、なんと、毎日が楽しいことなのだとわかるものです。このことが、解脱であり、極楽浄土だといえるのではないですか。
 この極楽浄土は、あの世もこの世も同じように楽しいものにしなくてはなりません。そこを輪廻しているわけですから、こんな喜びはないでしょう。
 さきほども言いましたように、この宇宙は極端と極端が集まっているのです。それを埋め合わすために、人間はあらゆる立場に生まれる必要があるでしょう。ある時は、男に、ある時は女に生まれ、またある時は、白人に、またある時は黒人や黄色人に生まれることによって、それぞれの立場や違いがわかるのです。
差別意識とは、「自分とは違うのだ」という意識からおこってくるのですが、「自分も体験したのだ」とわかると差別意識などおこってこないのです。
 たとえば、ひとに相談をされても、経験のないものは理解しにくいですが、経験をしたことは、相手の気持ちがよくわかり、アドバイスもしやすいものです。このように、人間はあらゆる体験を長い輪廻のなかで経験していくことによって、宇宙の調和を計れるのではないでしょうか。
 このようなことがわかると、男女の差別や民族の差別などを宗教的な立場からなくしていけるのです。

【真理はあたりまえの中にある】

 その長い長い永遠の輪廻の中で、人間が少しでも早く極楽浄土を築いていくためのノウハウが、お釈迦様の説かれた『八正道』なのです。
 つまり、
 『正しくものを見る』
   ◇
 『正しくものを思う』
   ◇
 『正しくものを語る』
   ◇
 『正しく仕事をする』
   ◇
 『正しく生活をする』
   ◇
 『正しく道に精進する』
   ◇
 『正しく念じる』
   ◇
 『正しく定に入る』 

 の八つです。
 正しくとは、もちろん偏らない中道をいうのです。
 このように、極楽浄土とは、ごくあたりまえの生活のなかにあるのだとお釈迦様は言っておられるのです。
 なのにどうして人間は、人よりすぐれようとして超能力を得ようとか、人と違ったことをして目立とうとかするのでしょう。とくに最近の宗教では、人より早く救われようとして肉体的修行をしたり、先祖供養にお金を費やしたり、お経をたくさんとなえたりする傾向があります。このようなことでは、ますます執着を増やすばかりではないでしょうか。
 最近特に超能力のようなものを求める傾向があります。見えないものを見たいとか、人の過去や未来を透視したいとか、あげくの果てには結婚相手まで決めてしまう宗教まで出てくる始末です。私達はどうして七色の範囲しか目でとらえられないのか、どうしてある範囲の音しか聞こえないのか、またどうして未来がわからないのか考えたことがあるでしょうか。もし仮に]線が見えたり、超音波が聞こえたらどうでしょう。私達が今見ている自然の美しさや、自然の音の素晴らしさを味わうことは出来ないはずです。この『あたりまえ』や『ふつう』ということが、どんなに素晴らしいことなのかを私達はもう一度考えてみる必要があるのではないでしょうか。
 また、意識の世界にいけば、そこにはそこで意識の法則が働いているはずです。この世で超能力を求めなくとも、あの世では超能力者になるのです。ただし、心のままの世界なので、心の暗い魂は暗い世界でしょうし、心の重い魂は自由に動くことは出来ないのです。
 いかにこの三次元世界が、心の調和を現すのに最適な環境に出来ているのかを、あらためて驚きます。

【心と物質の関係】

 四回にわたって意識界、つまりあの世の世界のお話をしてきましたが、皆さんはどのように考えられますか。私達現代人の大半の方が、「あの世なんて古い迷信だ」と思われています。ところが、私達の人類の歴史をみてもわかるように、魂があって私達はあの世にもどるのだという儀式やお祭りはどこの国にも風習としてあるのです。
 科学が発達してきた現代は、科学万能の時代だといわれています。ところが、今の科学ではまだまだ解明できないことが山ほど残っているのです。科学の発達も21世紀からますます進歩していくでしょう。それには、宇宙の謎や意識の不思議さが科学的に証明されることが望まれます。
 所謂、宗教でいうところの『神』や『あの世』の問題が科学的に解明されていくことで、宗教の統一や差別意識や戦争のない明るい平和な地球を目指していけるということです。宗教とは宇宙を示す教えです。科学的な根拠がなければ意味をなしません。物理学も心理学も大事です。特に見えない心理学の発達には期待をしたいものです。近い将来には、意識と物質の関係なども解明され、『心と物質の関係学』などといった専門学者などがでてくるのでしょう。そうすれば、医学の分野では、心と体の医療が主流になってくるでしょう。また、農作物の生産や、料理教室、それにスポーツの分野などにもこの学問が生きてくるでしょう。そのほか、学校教育、仕事、政治、育児等々あらゆる分野に活用されてくると、大きく世の中が変わってきます。この『心と物質』の両方に働いている法則が宇宙の【法】であると高橋先生は言っておられます。

 その【法】とは、
 @生命、エネルギー不滅の法則
 A原因と結果の法則・・・動・反動の法則、作用・反作用の法則
 B循環の法則
 C慣性の法則
 D波長共鳴の法則・・・類は類を以って集まる

 以上の法則が心にも物質にも働いているいるのです。
 この法則を次章からは一つ一つ説明していきたいと思います。



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