第 二 十 七 章



意識界V 


【科学者による死後の世界の研究】 

 前回は、仏教的なあの世の構造と、キリスト教的なあの世の構造のお話をさせていただきました。仏教的なあの世では、六道輪廻をしながら極楽をめざしましたが、キリスト教的あの世では、輪廻はなく地獄に堕ちれば『最後の審判』があるまで永遠に苦しむということでした。さて、どちらの考え方が正しいのでしょうか?それともどちらの考え方も間違いなでしょうか?
 最近、本屋さんにいけば、臨死体験や生まれ変わりの本をよく見かけるようになりました。そして、これらの本の著者には、医学博士や大学教授が多くみられるのが特徴です。それは、私達人間が人間というものを研究していくうえにおいて、死後やあの世というものを研究する必要があるという証ではないでしょうか。
 では、その本のいくつかを次に紹介しましょう。日本教文社『前世を記憶する子どもたち』イアン・ステイーヴンソン著(ヴァージニア大学精神学科主任教授)/同著者で春秋社『生まれ変わりの刻印』/読売新聞社『「死ぬ瞬間」と臨死体験』E・キューブラー・ロス著(元シカゴ大学精神学部教授・医学博士)/ТBSブリタニカ『臨死体験』メルヴィン・モース(医学博士・小児科医)/PHP『前世療法』ブライアン・L・ワイス(医学博士・マイアミ大学医学部精神科教授)等々があります。
 これらの本の内容を御紹介するのは、紙面の都合上できませんので、興味のあるかたは本をお読みください。

【高橋信次先生のあの世とこの世】

 今回、皆様には、本書十三章(瞑想A)で御紹介しました、高橋信次先生のあの世の説明を三宝出版 高橋信次著『心の発見・科学篇』より御紹介しましょう。

◇あの世とこの世
 
 現象界この世は、善と悪、調和と不調和の諸現象が同居している社会である。
 それは私達の意識が、人生航路の修行場を渡って行く肉体舟の五官六根という煩悩が造り出した産物である。煩悩が肉体舟を支配してしまうと、表面意識が一〇%、潜在意識が九〇%となって、あらゆる事象に対し、自己保存になってものの判断が鈍ってしまう。判断が鈍ってしまうから自己発見のために修行ができるということにもなる。
 あの世、実在界は、天上界、地獄界に大別されて、善悪がはっきりと区分されている。なぜなら、慣性の法則と同様に、この現象界での人生航路の一生が意識に記録され、この世を去るときの状態であの世に帰り、しばらくは現世の意識を持ち続けているからだ。
 その行為と想念の、自分の心に反した意識の中は神仏の光がない為に暗く、自分の心に忠実に生活して正法を実践し、人々を慈悲と愛によって救ってきた人間の意識は光に満ちている。人間がこの現象界で生活をしてきた一切の善悪については、自分自身で裁き、地獄極楽も自分で定め、罪の償いもまた自分自身でしなくてはならないのが、あの世の掟なのである。
 悟るも悟らぬも、己の心次第である。それには何人も干渉することは許されない。自分自身を安易にすることもきびしくすることも自らの力ではできない世界なのである。
 ではその世界にはどんな区分があるか、次に説明しよう。

一、如来界(上段階の光の大指導霊)
 この世界は、心の調和度によって、神仏と表裏一体、この現象界と実在界の支配者の世界で、『光明の世界』という。
 釈迦、イエス、モーゼ、すなわちアガシャー系グループといわれている上段階光の大指導霊の世界で、仏教的には金剛界とも如来界ともいわれている。上段階光の大指導霊達は、大宇宙即一体の心を持ち、すべてにこだわりのない、万象大調和を根本とした社会を造り、この世とあの世の支配をしている。
 その環境には、植物、鉱物、動物の存在があり、また常春のような和らぎと美しい調和の世界で万国人民共存の社会生活が営まれている。

二、菩薩界(上段階光の指導霊)
 如来界と続いて、菩薩界と仏教で呼ばれている光の国が存在している。
 上段階光の指導霊の世界であり、如来界とほとんど変わらない社会生活が営まれている。あたかもこの現象界でいうと、中央都市とその近郊のような感じを受ける。大自然の美しさはこの現象界の比ではない。
 この世界の光の指導霊の胸には、約6oくらいの、丁度ボタンかバッチに似たようなものが三個ついており、この機能は、通信から言葉のセレクターなど一切の感知作用をする。集積回路に似た機械である。この現象界に存在する一切の文明も存在しているが、その文明の高さは想像に絶するほど香り高い、次元の異なった世界である。他の天体との外交官的な仕事をしている人もいて、指導霊達は現象界と実在界の指導とともに自分自身もまた生活の中で修行をしている。

三、神界(光の天使)
 さらに一段低い霊域の世界が、光の天使の住んでいる神界である。
 この世界には、哲学者、学者、科学者のように、智で悟って実在界に帰られた天使達が生活している。専門的な研究者が多く、この現象界で肉体舟に乗って修行している人々の、研究努力に協力している光の天使達で、ドクターと称されている天使達が非常に多いところである。また、この世界よりさらに低段階にある霊界や、幽界の指導者達も多い。
 あの世はあくまでも意識の調和度によって世界が構成されているから、低段階の世界から上段階の世界へ行くことは絶対に不可能であり、低段階からでは、上段階の世界は光が強いため見ることさえできない。この現象界の人々が、八百万の神々を祈るのに似て低段階の住人は、上段階光の大指導霊や上段階の指導霊を見ると、やはり神さまだ仏さまだと手を合わせたり十字を切ったりしている。もし低段階から上段階の世界へ行ける場合でも、必ず上段階光の天使や、指導霊が一緒でなくては行けないところである。
 このように、意識の調和度がいかに重大であるかを、この事実によっても私達は知ることができる。だから私達は、あの世の仕組みについて十分考えなければならない。それは、仏教でも、キリスト教でも常に教示している世界であり、私達が正しい人間としての生活を送っていれば、誰にでも確認できる世界である。

四、霊界
 神界よりさらに段階の下りた世界が、霊界である。
 芸能関係や、スポーツ関係、また思想的な小集団にいた住人達の非常に多い世界である。東洋、西洋、どの民族にかかわらず、人類は皆兄弟というような一つの世界に進展されているところで、幽界より精妙化され、霊域が高い。幽界と同じ様に、神社仏閣、教会もあるが、形造ったものは何も祀っていない反省の場、修行の場である。分身や本体というような、魂の兄弟達とも常に連絡をとったりして、共同生活をしている住人も多くいる。
 生命の兄弟達には、同国人同士というのは少ない。しかし意識が完全に通じるため、考えていることなどすぐ解る。従ってその点も肉体的な両親や兄弟などと異なっていて進歩的である。
 また生命の分身や本体が現象界へ出ている場合は守護霊もする。この世界からみれば、地上界は硝子張りでそのまま見通しであるため、煩悩に支配されている人々の心も良く分かるので、分身や本体の人生航路の変化に、幽界、霊界の人達がともに苦しい修行をする場合もある。神理を悟っている人々の守護なら安心していられるが、心ない本体や分身が肉体修行しているときは、交替してやりたくなる、と彼らは語っている。肉体修行をしている人々に不調和な心があるときは、あの世の本体や分身は、修行の場所で神仏の光を戴いているにもかかわらず、現象界の修行者のそばでは黒い想念に覆われ、肉体者に教えることができずに悲しんでいることが多い。だから私達人間は、独りで修行しているのではないことを、常に魂の兄弟や友人達が協力してくれていることを忘れてはならない。
 霊界には、幽界より進化してきた生命も多く、あの世では霊界人と幽界人の数が最も多い。肉体的な両親や兄弟は、こうした生命の友人や親しい者達が相談して役所のようなところに申請した結果の現象であり、約束ごとなのである。これを縁生という。私達は、このようにあの世の生命に、常にコントロールされていることを知らねばならない。

五、幽界
 幽界は、一般に天上界の入口より上下の階段が、霊の調和度によって造り出された世界である。
 この現象界と同様に、自分自身が望んだ人々の集団によっての各国が存在しており、現世と異なるところは、戦争のない調和された社会組織になっており、経済はバーター制(物々交換)をとっている。また各自が己自身に足ることを良く悟っている。
 表面意識が九〇%となっていて潜在意識は一〇%であるが、未だ人間社会の匂いがする。一時期、肉体的な先祖や両親、兄弟達と生活をする生命が多いが、それも同程度に調和された意識の者同士の集団であるから、私達には会うことも大変である。
 幽界も上段階に行くに従って、他国人と同じ場所で生活するようになっているが、やはりこの現象界とは比較にならないほど調和度の高い世界である。
 働いている人々もほとんど勤勉で、心の修行に専念しており、より高い次元の世界へ進化するために努力している。神界や霊界の指導者達が、あらゆる教育をしてその人々の心の練磨、生活との調和に協力している。
 この世界からも、肉体修行の目的で現象界に生まれてくる者は多い。それはこの現象界が、各世界を通じて最も大変な修行場であるため、意識をより以上に磨いて、自分達の世界の霊域を高めようと、幽界人達が肉体修行を申請するからである。
 なぜそうするかといえば、あの世は、あらゆる現象がすぐ自分に分かってしまうためなかなか修行ができず、悟ることも早く苦しみが少ない、という理由による。また時間も異なっているため修行に対しての進化は、この現象界の修行結果と大分違ってくる。現世の一年は実在界の修行では七十年〜百年にも相当する。従ってあの世の修行効果より現在において悟ることがより早道なのである。

六、地獄界
 地獄界は、人生航路における修行の結果の、不調和の想念に比例した世界として存在している。この現象界において、正しい人々を恨んだり、そしったり、常に心の安らぎのない人々が、この世を去るまでその意識を持ち続けると、その地獄で、悟るまで修行をしなくてはならない。
 色情が強く、常に肉体的な欲望の強い人々には、その欲望を満たすことのできない、好きな人との生活も魔法に奪われる、常に精神の不安定な生活が続くのがこの世界である。煉獄地獄の環境は、苦しみや悲しみ世界であり、常に心の中に闘争と破壊の渦巻いている人々の世界で安らぎはない。人をそしる人、怒る人、偽善者、エゴイスト、狂思想者などもまたそこへ陥る。
 金銭欲の強い人や、この世に未練や執着を持つ人、己自身に足ることを知らぬ人々は、餓鬼界に陥る。動物本性まる出しの人々は動物界に、また火付けは火炎地獄に、スターリンやヒットラーのように、無間地獄にいる生命もある。無間地獄は、現世において多くの人民を犠牲にして我欲を果たした人々が行く世界である。多くの人々の、恨みの想念が晴れるまでそこで無限に苦しまなくてはならないところだ。
 地位、名誉、経済力、学歴など一切あの世には通用しない。ただ通じるのは、己の心の調和度と、毎日の正しい行為と努力の集積である。
 この現象界において、物質経済の奴隷となり、常に自己保存や自我我欲に徹している人々の心はその餓鬼界に通じており、肉体を持ちながら地獄の生活をしている。栄達をのみ望む者、闘争に明け暮れている者、不調和な教義を諸人に説く指導者、組織の細胞と化している者など心に平和のない人々も、地獄の阿修羅に通じていて、生きながら阿修羅地獄で生活をしているということだ。
 これらに反し、足ることを知る人々には常に安らぎがある。人間はだから、肉体を去るときに憂いのない生活をするよう、良く反省するべきである。
   ◇
 以上が高橋信次先生のあの世の説明です。読んでみられていかがでしたか。
 
【あの世の裁きは自分自身】

 このなかで、特に大事なところは次の箇所だと思います。『人間はこの現象界で生活をしてきた一切の善悪については、自分自身で裁き、地獄極楽も自分で定め、罪の償いもまた自分自身でしなくてはならないのが、あの世の掟なのである。』
 ここで前回の、『日本式死後の世界』と『キリスト教世界の天国と地獄』の内容を思い出してください。日本式では、死後に裁判があり次の世が決定しました。もし地獄であれば、最もかるいもので約一兆六千二百億年の刑罰ということです。ところが、読経や写経や遺族の追善供養があれば救われるというのです。
 キリスト教式でも、神の審判がありました。これは世界の終わりに『最後の審判』があり、地獄に堕ちたら神の審判があるまでずっと苦しむのです。追善供養ですくわれる余地もないので日本式よりきびしい地獄でした。
 さて、高橋先生のあの世とでは、どこが違うのかおわかりになるでしょう。従来のあの世では、閣魔王か神に裁かれるといっていますが、高橋先生は「自分がさばくのです」と言われています。皆さんはどちらが正しいと思われますか?
 私達人間には【良心】があります。そのため、人間には【自責の念】というものがあるのです。皆さんは、他人から責められるのと、自分で自分を責めるのと、どちらがつらいと思われますか?一般には、他人から責められるほうがつらいはずだと思うでしょう。ところが、自分で自分を責めるほうが地獄の苦しみなのです。なぜなら、他人から責められても、そのときは苦しいでしょうが、その人がいなくなった時は気持ちが楽になるでしょう。また他人には嘘をついてごまかすこともできるのです。
 しかし、自分が自分を責め出すと、自分からにげることはできません。それに、自分に嘘をついてごまかすこともできないのです。つまり、自分が自分を許さない限り永遠に苦しむのです。
 日本式死後のように、死後、閣魔王に裁かれるより、自分が裁くほうがつらいということになります。閣魔王に裁かれても、いずれ刑期が終わると助かるのです。しかしまた、人間界で悪いことをして、閣魔王に裁かれて地獄に墜ちるでしょう。そして刑期が終わればまた助かるのです。
 こんなことを繰り返していて、魂が向上するのでしようか?
 以前に映画で『塀の中の懲りない面々』というのがありましたが、地獄でも同じことが言えませんか。
 やはり、わたしは高橋先生の言われるように、あの世では自分が自分を裁くのだと思います。いくら読経や写経や追善供養をしてもらっても自分が自分を許さない限り救われないというのが本当でしょう。また、キリスト教式死後の世界の『最後の審判』はどうでしょう。神が人間を裁くのだといいますが、はたして、慈悲や愛の心をもった神が子である人間を裁くでしょうか。もし、裁く心を神が持っているなら、この世の中の悪人はもう既に神から裁かれて、太陽の光も空気も取り上げられているはずでしょう。このように裁くのはやはり自分自身だということです。

【反省が自分を救う】

 では自分が自分を許すにはどのようなことをすればよいのでしょうか?
 これが【反省】なのです。いくら刑期が終わっても反省をしていなければ、魂の向上がないので地獄にいっても意味のないことになるのです。
 高橋先生は「反省は神が人間にあたえた慈悲なのです」と言っておられます。しかし、いったん地獄にいってしまうと、そのなかで反省をすることは至難のわざなのです。なぜなら、あの世では似た者同士が集まっているので、なかなか反省ができないのです。その点この世は、心の広い人や狭い人、また善人や悪人等が入り交じっている世界なので、仮に悪の道に入っても善人に反省を促されることがあるのです。また心の狭い人は心の広い人を見て反省をするチャンスがあるのです。
 「あの世の地獄では、この世の時間で五百年から千年もいる人がざらにいるのです」と高橋先生は言っておられます。たとえば、この世では、土地やお金に執着をもっていても、人の優しい心にふれることによって、ものに対する執着から解放される人がいます。それに、あることにこだわっていて苦しくても、環境を変えることによってこだわりから解放されることがあるのです。ところが、あの世では意識の世界なので、思ったことが即映像化されてしまうので、優しい心にふれることも環境を変えることもできないのです。いかに地獄の世界が厳しいかわかっていただけるでしょう。このような地獄の世界に読経や写経などの供養で地獄の人がすくわれるでしょうか。
 自分が自分を裁いている人に読経や写経などきかないでしょう。供養をするなら、生きている人が、明るく正しく生きることです。それが地獄の人の反省材料になるのです。あの世からはこの世は見えるのです。皆さんの中には、「あの世なんて信じられないよ」と言われるかたがいらっしゃるかもしれません。ところが、信じようが信じまいが、有るか無いかは二分の一の確率なのです。
 信じる人も信じられない人もしっかりと意識の世界の勉強はしておくべきではないでしょうか。
 次章は意識界の最終回です



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