第 二 十 三 章



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【仏教とキリスト教の常識】

 ではまず、皆様に仏教とキリスト教の考え方の違いをわかってもらうために、仏教学者のひろさちや氏と一九八八年に他界されたカトリック神父の堀田雄康氏の対談をまとめた春秋社出版の『仏教とキリスト教の常識』という本の中から、ほんの一部を抜粋したものを、つぎにご紹介してみましょう。
 『【ひろ】小乗仏教は生死をワンセットにして苦の問題を解決すると前に言いましたが、大乗仏教になると、苦の問題の解決方法は、いうならば死の肯定になると思うんですね。
 というのは、日本人は生死をワンセットにして、生も悪いものだ、死も悪いものだ、両方悪いものだとは見ないですね。日本人は、生はいいものだと見るわけですよ。
 その日本人に、生がいいものなら死もすばらしいものだと教えるのが、一つの解決になるんですね。死がいやだ、いやだといっている日本人に、そうじゃないんだ、死もすばらしいんだと教えれば、それが解決になるわけです・・・略)
 【堀田】キリスト教の場合は、死は罪の結果であると考えています。神にそむいた結果として、死というものがこの世界に入ったんだ、と。(ローマ5・12参照)
 で、死というものは、やはり人間にとって不幸であり、忌むべき、また恐ろしい現実であるというとらえ方をします。しかし、死はそれ自体で終わってしまうものじゃない。永遠の生への関門、あるいはチャンネルだとみなしているんです・・・(中略)』
 『【むろ】 (中略)・・・つまり、この現世において修行するのは難しいから、いったん仏の世界に生まれて、そこで修行を完成させようというのが、浄土教の理論です。後に日本仏教になって、親鸞聖人の教えになりますと、そこで修行することはいわなくてもいい、浄土に行ければもうそれでいいというふうになるわけです。考え方がキリスト教に非常に近いわけですよ・・・(中略)
 【堀田】仏教の輪廻というのは、円運動だということがいわれますね。それに対して、キリスト教は直線運動といいましょうか、世界や人間の運命は永遠から永遠へと直線的に進んでいくととらえる。その直線運動の中にこの世というものがあり、また、個人にとっての人生というものがある、と考えるわけです。人間は神によって造られ、そしてすべての人間は天の国、神の国に招かれており、また本来はそこへ行きつくように造られている。しかし、神に逆らう者、神の意思に従わない者は、永遠の滅びに行かざるをえなくなるということですね。とにかく、その直線運動の先は、まともに進めば永遠の生、神と共に永遠に生きることなんです・・・(中略)』
 『【ひろ】宇宙は仏陀で充満しているという思想が出てきたあと、仏教は一つの数字を持つんですね。それは何かといいますと、私は宇宙仏と名づけているんですが、その宇宙仏の思想そのものが仏なのだ、あるいは宇宙の根源にまします仏という思想ですね。
 宇宙仏というのは、キリスト教のゴッドと同じだと思うんですが、専門的な用語ではビルシャナ仏(毘盧遮那仏)という。あまりなじみのない名前ですけれども、東大寺の大仏さんがこのビルシャナ仏なんです。
 これは沈黙の仏だとされている。宇宙仏で、宇宙そのものですから、教えを説くことができない。あるいは、説くにしても宇宙語でしか説けないわけですね。(笑い)
 ビルシャナ仏は沈黙の仏で、ご自分はぜったいに教えを説かない。じゃあ、人々にどのようにして教えを伝えるかというと、自分の毛穴から四方八方に仏陀を派遣するんですね。自分の分身を四方八方に派遣する。
 (中略)・・・ところで、いま述べたのは一般の大乗仏教の理論であって、もう一つの密教というのがあります。密教でいくと、ビルシャナ仏は大日如来になります。ヴァイローチャナが太陽ですから、上に大をつけて大日と訳したんですね。表から見たらビルシャナ仏、裏から見ると密教の大日如来、というふうに理解してもらえばいいと思います。
 表のほうのビルシャナ仏は沈黙の仏ですが、密教の大日如来は雄弁な仏なんですね。雄弁の仏が密教―秘密仏教という意味ですがーというのは非常にパラドクシカルですが、雄弁といっても宇宙語でしゃべっておられるわけですね。
 宇宙語だから、私たち人間には聞こえない。だから、秘密仏教である。私たちはその宇宙語を理解するようにすればいいわけです。(中略)・・・だから、私たちが修行を積んで、ホコリを払って感性をとぎすませば、大日如来の教えが直接聞こえてくる、と考えるわけです。
 【堀田】先生がこれまで説明してくださったことは、経典に書かれていることなんですね。
 【ひろ】 (中略)・・・いろんな経典を総合してみると、こうなるわけです。』
『【ひろ】 (中略)・・・私たちは仏の教え、その根幹は縁起なんですが、その縁起を理解すると同時に、みずからその仏になる、そういう側面があるわけです。キリスト教には、これはぜったいにないだろうと思うんですね。人間がキリストになるわけがない。
 【堀田】それはないですね。キリストと一致する、キリストと一つのいのちに生きるという考え方はありますが・・・。でも、あくまでもキリストはキリスト、人間は人間ですね。
 【ひろ】仏教の場合は、私たち凡夫が修行することによって仏陀になるわけです。仏性という言葉があるんですが、私たち凡夫が修行して仏になることができるということは、とりもなおさず、私たち仏になるための下地がないといけないんですね。その下地を仏性というわけです。
 ちょうど自分の心の中にダイヤモンドを持っているように、みんな仏性を持っているんです。そのダイヤモンドが、煩悩というほこりに覆われている。だから、それを払い除けて、ダイヤモンドを磨き出せばいい・・・(中略)』
 『【ひろ】キリスト教の場合は、愛しなさいというのは、神の命令としてあるわけですね。とすれば、私たちに愛することができるかというのは、キリスト教徒にとっては無用な問いなんでしょうね。神は、私たちが愛することができるからこそ、愛しなさいと命令されたんでしょうから。
 その意味では、仏教は、人間が愛することができるかできないかというのは、人間の次元で考えざるをえないわけです。私たちは、みな凡夫である。そういう凡夫がほんとうに愛することができるんですかという問いから、仏教は出発したんですね。
 その辺を要するに、神、絶対者によらずに、超越的な理論によらずに、あくまでも人間の論理で追究していくと、愛の可能性というものは非常に難しいことになると思うんですね。おそらくキリスト教徒の場合は、論理的に問うことなしに、愛が無条件にいえるんだろうと思うんですね。
 【堀田】別ないい方をしますと、人間のレベルだけで考えていないということですね。
 【ひろ】超越者があるわけですね。
 【堀田】そうです。そして、その超越者である神との縦の関係を土台にして、人間同士の横の関係を作り上げていくということになるんですね。
 【ひろ】仏教の場合は、やはり人間の中で、あくまでも人間に基づきながらしか、論理を積み上げていくことができない。
 【堀田】そこら辺りが、仏教とキリスト教の決定的な相違かもしれませんね。』
 さて、以上の対談を読まれてどうですか?
 キリスト教と仏教の【死】や【愛】や【神】に対する考え方がこれほど違うのです。

【日本は神道・仏教・儒教の影響が大】

 ところが、私たち日本人は「ふーん、そんなに違うのか」というくらいではないでしょうか?
 なぜなら、私たち日本人はそれほど【神】と日常生活が密着していないからかも知れません。しかし、キリスト教徒やイスラム教徒やユダヤ教徒の多い欧米や中近東では【神】と日常生活が密着しているのです。死や愛や神にたいして、考え方や習慣が違うと結婚したりおなじ場所で生活をするのはとても困難なのです。ときには喧嘩になったり、殺しあいにまで発展することもあるのです。
 たとえば、イスラム教には【聖戦】(ジハード)という思想があり、「向こうからしかけてきたなら、かまわず殺せ、殺したのはアラーが殺し給うたのだ」ということになり、「アラーの道に戦って死んだ者は、必ずや大きな賞賛を授けられる」ということがイスラム教の聖典『コーラン』には載っているのです。このような教えがあるからこそ、イスラム原理主義組織のなかには自爆テロを志願する人があとをたたない理由にもなっているのです。
 また、欧米人と日本人のものの考え方や文化の違いなどみると、宗教の影響がかなり大きいことがわかります。日本ではもともと神道があったのです。神道ではすべての自然のものに神が宿ると考え、山や木や岩を御神体にしたり、また立派な人を神様にして祭ることもあります。
 そのひとつとして昔から日本人は太陽信仰をしていました。年輩のかたで、美しい朝日を見ると、おもわず手を合わす人がいるのはそのためです。欧米人では考えられない光景かもしれません。なぜなら、聖書では太陽も山も木もすべては造物主がつくったものなので、造物主には手を合わすが、つくられたものには手は合わさないといった考えがあるからです。
 またそれに、人間が神になった例としては『菅原道真』がいます。道真公は天神として天満宮にまつられていますが、現在では学者でもあったため学問の神様となり、受験シーズンになれば、たくさんの合格祈願の人がおしかけています。このことも欧米人には理解できないことでしょう。なぜなら、さきほどの対談でもあったように、欧米人には人間は絶対に神にはなれないという考えがあるからです。
 それに日本では神道以外に仏教や儒教の考え方がミックスされています。そのため日本の家には神棚と仏壇の両方をまつっているところが多いのです。また、精神的には儒教的な影響をうけていることが多いのです。以上のように、前回とあわせてみると日本人が思っている【神】と聖書にでてくる【GOD】とではかなり違う認識だとわかっていただけると思います。

【神理はひとつ】

 いずれにせよ、この宇宙はひとつしかないのです。ということは、真理はひとつということになります。真理を神理としますと、【神】という概念はひとつでないといけないということになります。
 なかには「神を信じるのは自由だから、それぞれの神があっていいのではないですか」というかたがいらっしゃると思いますが、神理からいうとそれはまちがった考えだと言わざるをえません。聖書のように、唯一絶対の神で、その神の言葉以外は信じないという教えでさえ、それぞれの解釈のしかたでユダヤ教・キリスト教・イスラム教の三つに分かれてしまうほどです。またそのなかのキリスト教でもカトリック・プロテスタント・東方正教会の三つにわかれているのです。
 まして八百万(やおよろず)の神の考え方をもつ日本人では、十八万四千団体の宗教法人があるのもうなずけると思います。
 ところが、さきほども言いましたように、日本は昔から神道・仏教・儒教の影響を受けているため、前回お話ししたキリスト教でいう原罪という考え方がないのです。日本では昔から『天業恢弘』といって仕事は天から与えられたものだという考え方が基本的にあるため、男は仕事をすることを喜びとし、女も家事育児を仕事とし喜びとするのです。
 ところが、欧米では仕事や出産は神から与えられた罰としてとっている考え方が基本にあるため、苦しみととっているかたが多いのです。そのため、休暇は長期にわたってゆっくり楽しむのです。
 このように、解釈ひとつでものの考え方まで正反対になってしまいます。
では、モーセもキリストも釈迦もマホメットもそれぞれ反対のことを説いたのでしょうか?それぞれ偉大な方々だとすれば、同じ真理を説いているはずではないでしょうか。
 しかしさきほどの対談のように、根本的にどこか違ってくるのはどうしてでしょう。

【普遍的な解釈の仕方が大事】

 これは、真理を説いた方より、聞いて解釈をする我々に問題があると考えた方が自然ではないですか。
 新約聖書をみると、イエスがなんども『聖書が成就するためである』といっておられます。これはイエスが旧約聖書に忠実であるということになります。では、どうしてイエスは十字架にかかったのかといいますと、当時の宗教家とイエスの旧約聖書にたいする解釈が正反対だったのではないでしょうか。
 釈迦にしてもそうだと思います。当時のバラモン教の教えをベースにして解釈の違いを当時の人々に説いていったのだ思います。とくに、イエスや釈迦はたとえばなしが多いため、その時の時代背景や習慣を加味して解釈しないと正反対になる可能性があると思われます。
 たとえば日本では、儒教の影響が大きいのですが、解釈を間違うと『任侠道の清水の次郎長』になったり忠臣蔵の赤穂浪士』が時代によっては正しくなってしまうのです。このように、宗教や思想よって殺人までも正当化されてしまうのです。世界の宗教戦争ばかりでなく、最近の日本では、オウム真理教のように神の名において集団殺人が計画され、実行されています。またそれに神の名において多額の金銭を要求されたり、神の名において結婚相手をきめられたりもしていることが、連日マスコミで報じられているような現状です。
 このようなことでは神という言葉に抵抗感を感じるのも無理のないことだと思います。わたしたちは、
【神仏】にたいする基本的概念だけは統一していきたいものです。そこから民族や環境によって生活文化が違っていくのは当然だと思います。
 神にたいする基本的概念が同じだからこそ、人類はみな兄弟だと言えるのではないでしょうか。私たちは宗教・神というものにもっと関心を持ち、世界のあらゆる宗教の神にたいする概念を勉強して、もういちど「神とはなんだろう?」「宗教とはなんだろう?」と純粋に考えてみたいものです。
 いま、世の中がいろんな意味でみだれている時期です。みだれているからこそ、統一していこうという気がおきてくるのです。人間は安定している時には、それを維持していこうと頑張りますが、より安定していこうという気はわきにくいものです。こまったときやみだれたときにこそ力を発揮するものです。いまだからこそ、【生命】【神】【人間】【自然】・・・といったことについて真剣に考える時期ではないでしょうか。
 さて次章では私なりに勉強してきたことや瞑想によって感じてきた神の概念についてお話ししていきたいと思います。
  
  
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