第 二 十 四 章



神仏U   


【絶対なるもの】

 さて、【神】という概念を統一しないかぎり世界の平和はやってこないということを、前回お話ししてきました。
 なぜなら、民族や宗教、また人によって神という概念がバラバラであれば、根本的考え方がバラバラだということになるからです。それに、【神】とは人間にとって【絶対的】なものだという意味だからです。ある人は「金が絶対だ」というでしょう。またある人は「先祖がすべてだ」というでしょう。その外には「権力だ」「血すじだ」「名誉だ」等と言う人、それに「遺伝子が絶対だ」とか「脳がすべてだ」「生きているうちがすべてだ」等と言う人がいます。
 宗教的には、『ヤハウェ(エホバ)・アラー・イエス・釈迦・観音菩薩・稲荷大明神・八大竜王』等々が絶対だと信じている人がいるでしょう。
 ところが絶対という意味は対が無いということで、『唯一のものでくらべるものが無い』という意味です。これほどたくさんの唯一のものがあってよいものでしょうか?これでは戦争に発展していくのも無理のないことだと思いませんか。
 人間とは【思考】するものです。フランスの哲学者であり数学者・物理学者であるパスカルは『無限な宇宙に比すれば、人間は葦のように弱いが、それを知っている人間は「考える葦」として偉大である』と言っています。そのとおりだと思います。
 付け加えさせてもらうならば、人間は唯一絶対なる【神】について思考するものとして偉大なるものだと言えるでしょう。
 つまり、人間は『絶対なるものをどのように思うか』が大切だということです。

【すべてのものは自分の意識の中】

 ここで、『本書六・七・八・九章(意識@AHC)』を参照してください。
 私たちはよく考えてみると、所詮自分の意識以外のことは考えられない、ということに気づくでしょう。他人が自分のことをどのように思っているのか、いくら考えても所詮自分の意識のなかです。「誰々はあのようなことをするので腹がたつ」と言っても所詮腹がたつのは自分の意識のなかです。「誰々がこのようなことをしたので自分はこうなった」と言っても自分の意識のなかです。「自分以外にも人間には意識があるのだ」と思っているのも自分の意識のなかです。
 このように見ますと、この宇宙のあらゆるものも自分の意識のなかなのです。(意識@)で説明しましたように、意識と字宙空間とは同じものなのです。所謂、【神】という絶対的なものも、自分の意識のなかに存在するということになるのです。このことを認識することは、とても大切なことなのです。仏教ではこれを、『吾』の『心』と書いて【悟り】というのです。
 人間はこのことをつい忘れて、「神様はどこか自分以外の遠くにいるのだ」とか「自分などちっぽけなもので、神様は自分のことなど気にもしていないだろう」と思ってみたり、また神殿を造り御神体を奉り「神はこのなかに宿っているのだ」と思うことが多いのです。
 ところが、人間がどのように思おうが、全ては自分の意識のなかなのです。まさに聖書の十戒に出てくる『偶像崇拝することなかれ』なのです。偶像を崇拝するということは、自分の意識のなかに神がいるのだということを認識していない、ということになるのです。
 では、すべてが自分の意識のなかだとしますと、天国も地獄も神も釈迦もキリストも、また悪魔でさえも自分の意識のなかにあるということになります。それに当然自分の体験してきた過去も、現在の体験も、また未来までもが自分の意識のなかに存在しているということになるのではないですか。
 このように考えると、自分の意識の構造はどのようになっているのか、また自分とは何者なんだろう、という興味が湧いてこないとおかしいはずです。私たち人間はそのことに興味もなく、ただ単に生きていれば、いずれむなしさにおそわれてくるのです。その証拠に、仕事におわれて働いていても、何年か繰り返していると、ふっとむなしさにおそわれたという経験がないですか。また主婦が家事におわれていても、子供たちが大きくなり生活に安定した時に、ふっとむなしさにおそわれた時はなかったでしょうか。よく考えてみてください、『むなしさにおそわれる』とは、なにかに満たされていないということです。言い換えると、いくら働いても、いくら家事をしていても、それは生まれてきた目的ではないということになりませんか。
 人間は年をとるとほとんどの人は、子供が楽しく遊んでいるところや、人の喜んでいる姿を見ることに安心感をおぼえてきます。このことは、人間の意識のなかには調和を喜ぶ心が存在しているということになります。
 仏教ではこの心のことを『仏心』といい、キリスト教では『神の子』というのでしょう。
 
【意識の構造を知るには、瞑想】

 さて話を戻して、意識の構造ですが、この意識の構造を知るにはどのようにすればよいのでしょうか?心理学を勉強するのも大事でしょう。また哲学書を読むこともいいかも知れません。しかし知識でよくわかったからといって、自分に自信が持てるでしょう
 意識の構造を知っていくには【瞑想】で実感していく以外方法はないのです。瞑想については、『本書十二・十三章(瞑想@A)』を参照してください。
 ではここから、私が瞑想で感じた意識の構造をお話していきましょう。
 さきほどもいいましたように、宇宙空間とは自分自身の意識のことなのです。このことを理解するには、空間というものを目を閉じて考えてみましょう。深く考えれば考えるほど、自分の意識が空間と同じ  ものだということが理解できてきます。ということは、自分の意識は、宇宙空間と同じ大きさであるということに気づくはずです。このことを仏教では『一念三千』といっているのです。難しくはありません。ただ空間というものをじっと深く考えてみてください。心さえリラックスしていれば、誰にでも感じるものです。それが理解できれば、この宇宙空間に起こっている出来事は、すべて自分の意識のなかで起こっているのだということがわかってきます。そこでこの宇宙空間のなかの出来事を深く考えてみましょう。
 どうですか、ある一定の法則というものを感じてきませんか?
 すべてのものには中心があり、そして相互関係のなかに循環運動をしていることが基本であるということに気づくはずです。「そんなことは言われなくても知っているよ」と思う方がいるでしょうが、知っているのと感じるのとでは全然ちがうのです。つまり、頭で考えるのではなく、心で感じるのです。
 瞑想でこの宇宙の法則に気づいてくれば、この法則が意志であるということが理解できてくるでしょう。この意志のことを、『自然の心』『宇宙の心』『神の心』というのです。この意志は、自分の意識の中心なのだということも理解できてくるでしょう。
 自然の心を知るには、太陽・月・海・川・山等の姿を目を閉じて深く思考してみましょう。
 どうですか、【神】の心が感じられてくるでしょ。人間のように自分だけにとらわれた自我などなく、ただすべての調和のために、法(神の意志)のなかに生きているではありませんか。
 このことを仏教では『諸法無我』というのでしょう。
 所謂、自分の意識の中心である本性は『善』だということです。この本性を言い換えると『良心』といいます。また絶対的なるものという意味で『真(しん)』といったり『神(しん)』という漢字をつかうのです。

【仏とは】

 では次に、【仏】とはどのように理解すればよいのでしょう。神という文字は『示す』と表現されており、仏は『人』と表現されています。つまり、神と人の関係という意味になります。この関係も自分の意識の構造ということになるのですが、すこしわかりにくいと思いますので、『本書三章(陰陽@)』でお話ししたように、「この宇宙の基本は一・二・三の三つのパターンで出来ている」というところを思い出してください。
 自分の意識の構造もこのように基本は三つのパターンなのです。
 『一』が心の中心である【真】つまり【絶対の心(神の心)】です。
 『二』は【善と悪】の心である【相対の心(人の心)】です。
 『三』とは、この真を中心とした善と悪の二等辺三角形の姿です。
 この二の善悪の心の内容が、心理学でいうところの、表面意識や潜在意識と言っている部分で、つまり人の心と言われているところです。
 そして、三は神と人の関係をあらわしているのです。一の【真】をあらわしたのが【善】でその姿のことを【美】とよぶのです。つまり三の姿を『真・善・美』といいます。
 ところが、二の相対の心とは、以前にお話ししたように、変化し続ける心ということなので、善をあらわしたり悪をあらわしてしまうのです。つまり、三の二等辺三角形が二等辺にならずに、三角形の内角がバラバラになってしまうのです。二等辺三角形であれば、それを無限に並べていくと、円に近づいてくるのです。ということは、ひとつの二等辺三角形がひとつの魂、つまり人のことです。逆にいうと、調和した人が無限に増えてくると、ひとつの円に近づいてくるのだと言えるのです。人間は即ち、人の集まりによってひとつの円を形成していく目的のために人の間と書いて【人間】と呼ぶのです。ところが、二等辺にならずにアンバランスな三角形が増えてくれば増えるほど、円は歪んだ形になってくるでしょう。



 心の歪んだ人が増えてくれば、宇宙は『偽・悪・醜』になってゆき、崩壊してゆくのです。
 では、仏とはどのような形なのかというと、円に近づくための直線に近い二等辺三角形です。すると、三角形の底辺が点に近づいていくため(三角形の頂点と底辺の距離は一定)、二等辺が円の中心にもっとも近くなります。これが、仏教でいうところの【中道】の心です。このような人が、神の心にもっとも近い魂だということです。所謂、釈迦・キリスト・モーゼ等の魂のことでしょう。
 また逆に二等辺三角形の頂点と底辺の最も遠い形は、二角が鋭角になり、頂点を中心に三つ三角形を作っても鋭利な刃物のようになります。
 つまり、とげとげしい人間や社会になるということです。

【宇宙即我】

 言葉で説明するととても複雑になって、理解して頂きにくいでしょうが、ようするに、私たちの意識はかたちでいうと、元々ひとつの円なのです。つまりこの宇宙はひとつだということで、自分とは宇宙そのものだということになるのです。このことを言葉でいうと『宇宙即我』『神人合一』『梵我一如』と言っているのです。
 その自分を無数の二等辺三角形に分類し、それぞれ三角形が自由に変化しだして、究極の円を表現しようとしているのです。ひとつの三角形が【部分】で、円が【全体】ということなのです。言い換えると、『神と人』ということです。また三角形全部と円の関係は、『神と人間』ということになります。
 この形が、いま本書を読んでいらっしゃる、あなたの意識の構造なのです。
 私は以前、瞑想中にドームの中にすっぼりと入った経験があります。その時の心の状態は言葉ではあらわしにくいのですが、安心しきった状態とでも表現すればよいのでしょうか、とても落ち着いた状態で、プラネタリウムのようなドーム状のようなものに入ったまま宇宙に浮かんでいるのです。ところが肉体の耳を通して、肉体のまわりの音が遠くから聞こえてくるのです。しかし、音は聞こえていても、心にはなんのひっかかりもないのです。
 このような経験は始めてでした。その時にわかったのですが、「人は心が調和すると丸くなるものなのだ」ということでした。また、瞑想を終えてから考えたのですが、「ドームのまわりの宇宙も、自分なんだろうな」ということと、「お釈迦さまやイエスさまのような境地になれば、大きいほうの宇宙から小さいドームを見下ろしているのだろうな」ということでした。よく「大所高所からものを考えよ」という言葉を聞きますが、意識の世界では実際に形にあらわれるのだと思いました。

【神の概念】

 私たちの意識の構造は、全体と部分という形をとっています。ちょうど十円玉の裏と表の関係のようなものです。さきほど言いましたように、十円玉が【一】で裏と表が【二】そして、十円玉と裏と表の関係が【三】ということです。
 神とはこの十円玉の完成された形のことです。そこで神の意識はその十円玉をよりきれいに表現するために裏と表に調和された絵柄を彫刻していこうと、自分を人間という姿にも形を変られたのです。つまり、一人二役を演じているわけです。この十円玉が宇宙そのものです。故にその宇宙には裏と表があります。そしてそこに彫刻していく人間は、この裏と表の宇宙をより調和させていく、つまり神の心を表現していくという使命を持っているのです。形でいうと、十円玉の上と下を固定して、裏と表の絵柄がよく見えるようにクルクル回すのです。ちょうど地球が回転して美しいように。
 ところが、人間はこの絵柄を彫刻するのは初めてなので、何回も失敗をしながら彫刻しているのです。
 また、別のたとえで言いますと、次のようなことだと思います。
 私たちは素晴らしい風景画を書きたいと思ったらどうするでしょう。まず絵の書き方を習いにいくでしょう。そしてマスターしたら、こんどは道具をそろえてきれいな場所にでかけていくはずです。さてそこで道具を出して書きはじめるのですが、一回ではなかなか上手な絵を書くことが出来ないはずです。何度も何度も失敗を重ねてうまくなっていくでしょう。
 このきれいな場所、つまり書こうとする風景が神そのものの姿です。そして絵の道具が、宇宙の全てのものだということです。
 そしてまず、書こうとする風景(神)を、自分の意識にイメージとして、ありありと焼き付けるでしょう。それから絵の具を筆につけてキャンバスに書きだすのです。なんども失敗をしたのち、完成をしたときは『風景・イメージ・絵』の三つが一体になるのです。そしてまた次のきれいな風景の場所に移動して、きれいな絵を完成していくのです。このきれいな風景は無限にあるので、永遠に写生を楽しめます。これが人生でしょう。
 このきれいな風景が神だといいました。風景は皆さんに罰をあたえたり怒ったりするでしょうか。だた私たち絵を描く者にすばらしさを与えてくれているだけです。それに絵を描く道具も、書き方のノウハウまでも与えてくれています。それが神の心でしょう。
 あとは人間が神の心をどう表現していくかだけのことだと思います。
 このように【神】とは、私たちの意識とは切っても切り離せない、調和し完成した意識のことで、人間はその意識を表現する役割を持っているのだといえます。
 故に、私たち人間は、いつも神に心を合わせていなければならないのです。
 ところが、なぜ人間は神との関係が一体であることを忘れて、人間と神との関係を遠ざけてしまったのでしょう。十円玉の裏が表になれないように、人間は神になれないということなのです。しかし人間と神は一体のものなのです。
 皆様にうまく神の概念がお伝えできたかどうか、表現力の乏しさをお詫びします。皆様に是非、瞑想を通じて実感して頂けることを願っております。そして神という概念が統一できることによって、全人類が平和になることを祈っています。
 さて次章では、さきほどお話ししました、宇宙には裏と表があるといったことの意味、つまり意識界(あの世)についてお話ししてみたいと思います。

  
  
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