第 二 十 章



ゆるしV   


【欲と本能】

 私達の一生は、「欲望との闘いだ」と言っても過言ではないでしょう。この欲望が、喧嘩や戦争へと発展していくのです。ところが私達はこの世の中を生きていく上において、【欲】が無くては生きていけないのも事実です。人間に食欲や性欲がなければ、とうの昔に人類は滅亡しているでしょう。ではこの【欲】とは、人間にとってどのようなものなのでしょう。それにはまず【本能】というものを見てみる必要があります。
 本能とは、気は本書十八章で説明しましたように、感情を動かす原動力になっているのです。本能は二大本能と言われるように、【食】と【性】に分けることができます。この二大本能を軸として、【闘争】【逃避】【拒否】【好奇】【服従】【獲得】【建設】【誇示】【群居】【母性】等の本能があらわれてくるのです。以上のような【欲】があるから、人間は生きてゆけるのです。ところが、人間はこれらの欲望を発展させ、地位・名誉・金・怠惰・愛欲等にとらわれてゆき、あげくの果てにみじめな結末をむかえるはめになってしまうのです。
 動物の世界を見るとどうでしょう。ほとんどは【食】と【性】の本能が中心ですが、多少の知性を持っているものは、二大本能を軸とした本能もあらわれています。しかし、足ることを知っているため、他を侵略したり、愛欲に溺れたりはしないのです。ライオンが弱い動物を扱き使っているとか、生活のために春を売っている猿などみたことがないでしょう。そのため、かれらの生活は人間が侵さないかぎり永遠に守られてゆくのです。言い換えると、自然(神)がかれらを管理していると言えるでしょう。
 その点人間には、自由があって動物とは違うのです。人間からかれらを見ると「動物は自由でいいなあ」と思うでしょうが、かれらには人間のような自由はないのです。なぜなら、動物は自然に逆らって生きるというようなことは出来ないのです。しかし人間は自然環境を変えたり、遺伝子を操作して本来の姿を変える力を持っているのです。つまり、自然を良くも悪くも出来る力を持っているということです。これは聖書の創世記に載っている【神】と同じ力を持っているということになるではないでしょうか。まさに人間は『神の子』なんだと言えるでしょう。
 このように、「人間は猿から進化したんだ」というダーウィンの進化論では、人間と動物の精神構造は説明できないのです。このため、人間は本能から発展する欲望をコントロールする力を発揮しなければならないのです。
このコントロールする力を【自由】というのです。本書十五章〔自由〕で説明しましたように、自由とは『自然の意志』つまり『神の心』のことなのです。人間は『神の子』である以上、【自由】に生きる必要があります。このことを別の言い方をすると、『足ることを知る』というのです。又、論語では、『過ぎたるは猶及ばざるが如し』と言っているのです。

【足ることを知らぬ欲望は猛毒】

 ではここで、どうして『足ることを知らぬ欲望』が毒になるのか、ということを説明していきましょう。以前にもお話ししたように、この宇宙は『相互依存』の形をとっています。『相互依存』とは、お互いが助け合っているということなのです。つまり、この宇宙にはいらないものは一切ないという意味になってくるのです。
 古来中国では『五行思想』というのがあり、万物を【木・火・土・金・水】の五つに分け、【相生関係・相剋関係】によって、一切の相互的な現象を説明しようとしました。相生関係とは、木を燃料として火が生まれ、火が燃えつくすと土が肥えるといったふうに、【木→火→土→金→水→木】という順に相手を生み出している母子の関係をいいます。相剋関係とは、木は土より養分を吸収し、土は水を吸収するといったふうに、【木→土→水→火→金→木】という順に相手を抑制している相畏の関係をいいます。古来中国ではこのように宇宙の関係をみていました。
 これを動物と植物の関係にあてはめてみると、肉食動物は草食動物を食べ、草食動物は植物を食べるという、一見弱肉強食のように見えますが、見方を変えると、動物の排泄物が土を育て、土は植物を育て、植物は草食動物を育て、草食動物は肉食動物を育てています。
 このように宇宙の全てのものは、お互いに生かしあったり、お互いに管理しあって調和を保っている姿だと言えます。然るに大宇宙そのものは、人間の身体のように、一つの生命体だと言えます。そのため、どこかのバランスが狂うと宇宙全体のバランスに影響があるはずです。
 ところが人間は、自分にとって都合の良いものはどんどん消費し、都合の悪いものは無駄なものだと考えてどんどん改良しています。このままでは宇宙そのものを破壊しかねません。まるで、人体を蝕むガン細胞のようなものです。神とおなじような力をもっている「神の子」である人間が、どうして宇宙にとってのガン細胞になるのでしょうか?その原因が『足ることを知らぬ欲望』なのです。小宇宙と言われる人体を見るとよくわかるはずです。
 美味しいからといって同じものを欲望のまま食べ続けていたり、楽しいからといって性欲のまま快楽にふけっていると、そのうち身体がこわれてしまいます。
それに名誉・地位・金に欲望をふくらませて生きていけば、どんどん自然を破壊して人類は自滅してゆくでしょう。
 このように『足ることを知らぬ欲望』は猛毒なのです。

【適量の基準はどこにある?】

 では、【足る】とはどの程度の欲なら良くて、どの程度は毒になるのでしょう。お酒や煙草を例にとるとよくわかるでしょう。適量だとお酒は百薬の長になり、度を越すと気違い水になってしまいます。又、煙草も「一服する」と言われるように、適量だとリラックスでき、度を越すと中毒になってしまいます。自然界に存在するものは、全て適量だと人間にとって善になり、度をこすと悪になります。しかしこの適量というのは、なにを基準にどのように決めればよいのでしょう。お酒を飲むのも、人によって適量は違いますし、食べ物の量や、運動量、お金や名誉・地位等々、どの程度が適量でしょう。
 人間の心の中にはその適量を知っているところがあるのです。その場所を【良心】というのです。具体的に言うと、そのものに感謝できる時が適量なのです。
 「なんだ、感謝できる時なら、いつでも感謝しているよ」とおっしゃるでしょうが、そうはいかないのです。食べ物をお腹いっばい食べた時、皆さんは心から食べ物に感謝できますか?たぶん次のように思うでしょう。「お腹いっばいでもう入りません。食べ物はもう結構です」このようにもういらないと思うのは、今は食べ物をありがたくないと思っていることですし、また「ちょっと食べ過ぎたな」と思っている時には、食べたもの自体にも感謝をしていないということのです。
 ではどのような状態だと食べ物がありがたいと思えるのかというと、「もうすこし食べたいな」と思っている時です。つまり【腹八分目】の時なのです。しかし、お腹が一分目か二分目の状態では、食べたいという欲求が強すぎてなかなか感謝までには至らないのです。『もうすこし体験したいな』という時が、その体験に感謝ができているということで、その人の適量なのです。
 お酒や煙草等は適量だと健康増進に役立つでしょう。但し、目的が【調和】を目指していることが条件です。お酒でもやけ酒だとか、煙草でも人に迷惑をかける場所などの喫煙では、適量でも毒になります。
 このように適量の基準は感謝のできる腹八分目なのです。

【競争社会は本来の姿ではない】

 ところが、肉体的に限界のある食欲や性欲、また仕事量やスポーツなどは、八分目という基準はわかりましたが、金銭欲・名誉欲・独占欲・自己顕示欲等の八分目というのはどのようにして決めたらよいのでしょうか?それは先ほども言いましたように、目的が【調和】でなければならないのです。
 この宇宙は相互関係のなかで調和を維持しています。そして人間にはその調和を発展させる力も、破壊する力もあるのだと言いました。調和が目的でなければ、この自然界は壊され人類は自滅してしまうのです。現代の社会はどうでしょう。金銭欲・名誉欲・独占欲自体が目的になっています。金融経済主体の世の中では人と人の調和より、会社の利益が目的のため、リストラで人を削減したり、会社の利益のためなら人を過労死させてしまうのです。
 このような考え方は、ダーウィンの進化論の自然淘汰説や、人間は闘争のなかで進歩していくといった思想等が影響しているのです。そして、生き残るための競争社会が生み出されていったのです。競争社会の金銭欲・名誉欲・独占欲・自己顕示欲等には、きりがありません。たとえ八分目にしたところで、感謝どころか不安がおそってくるでしょう。私達人類は闘争のなかでの調和を唱えていますが、目的が調和であれば、手段も調和でなければなりません。私達は自然と人間の調和を目的として、助け合いのなかで魂の進化をしていくのが本当だと思います。
 この世の中では、お金がなければ生きていけませんし、自分だけの所有物もある程度必要です。私達が自然と人間の調和を目的として、助け合いのなかで魂を向上させていくには、『心と体と経済の調和』を基本にしなくてはならないでしょう。
 以上のような目的のなかでの八分目であれば、金銭欲・名誉欲・独占欲・自己顕示欲等も『足ることを知る』になるでしょう。この足ることを知ったあとが大事なのです。調和を目的にするには、その欲が今度は人の為にならないと意味をなさないのです。お金儲けでいうと、使い方が大事だということです。会社で利益を上げたなら社会のためにその利益を使うということが大事なのです。また会社が赤字になり経営が苦しくなれば、まず人件費を削減するのではなく、それぞれが足ることを知って、みんなで乗り切っていくことが、助け合いのなかで魂を向上させていることになるのです。

【もし日本にパニックが起きたら】

 今日本はバブル経済がはじけて経済不況が続いています。それに、最近新聞の経済欄に『デフレスパイラル』ということばを見ることが多くなりました。これは、経済の回復がとても難しいということなのです。そうすると、これから日本はどんどんリストラや倒産が増え、失業者が多くなってゆくことになります。
 ところが私達日本人は贅沢が身についているため、貧しい生活に耐えることが難しいのではないでしょうか。以前にも米不足が騒がれた時に、タイ米を輸入したことがありましたが、ほとんどの人が『こしひかり』や『ささにしき』だといった有名ブランドの米を探していました。このように『足ることを知らぬ欲望』はそう簡単に消えてくれないのです。『足ることを知らぬ欲望』は物資が豊富な時は、快楽として感じられていますが、ひとたび不況になり、望みが叶えられなくなった時や、世の中がパニックに陥ったりすると、とたんに牙をむき出して本性をあらわすのです。
 皆さんは映画でパニックのシーンを見られたことがあるでしょう。そんな時、人間の醜い面を見せているのは、たいてい物質欲の強い人です。現実の世の中でも食料難になり、パニックが起きないともかぎりません。私達人間は自然との相互関係を忘れ、使い捨て時代や飽食時代を過ごしています。このままでは資源がそこをついて、人類が自滅するのは時間の問題のような気がします。
 となりの北朝鮮では餓死者が出ているというのに、日本ではダイエットに悩んでいる人がいるという状況です。このような日本の状態では、ちょっとした事態でもパニックに陥ったり、精神的な病に侵されてしまうことでしょう。
このようなことになる原因が『足ることを知らぬ欲望』なのです。仏教などで言われている餓鬼界という地獄に落ちるのが、『足ることを知らぬ欲望』に溺れた人達なのです。ところが、死んでから地獄に行かなくても、今の日本ならちょっとした食料難でも、地獄絵図が繰り広げられてしまうのではないでしょうか。
なぜなら、新聞の三面記事の事件を見ても、自分の意見が通らないからといって親を殺したり、子供を車においてパチンコをしていて子供を死なせたり、子供が泣いてうるさいから折檻して殺すというような、自分のことだけしか考えていない事件が目にあまります。

【「足ることを知る」ことが地球を救う】

 これも『個人の自由』という風潮が行き過ぎた結果だと思われます。
 本書十五章〔自由〕でお話ししたように、自由をはき違えた個人主義が、「人のことや国のことを考えないのは本人の自由だ」というようになってきたのです。そのため、子供がレストランや他人の家であばれたり、悪いことをしても注意する親が少なくなり、また他人に子供が注意されると「よけいな御世話だ」と反対に怒り出す親が増えてきたのです。それに、物を与えることが幸せだと思い、子供の欲しがるものはすぐに買ってやる親が多くなったため、『足ること知る』子供が少なくなり、欲しい物はどんなことをしても手に入れようという人間が増えているのです。このままでは、聖書にのっているソドムとゴモラ(住民の罪悪のため、神に滅ぼされた都市)になってしまいます。私達は一日も早く足ることを知って、自然と共存をしなければなりません。
 人口問題・環境汚染問題・食料危機問題・資源問題等々、全ては人間の『足ることを知らぬ欲望』からきています。今、日本は経済の回復ばかりを考えていてもよいのでしょうか?人は病気をしたりけがをした時に、身体の回復ばかり考えずに病気になったりけがをした原因を考えて、心を改めるのが本当でしょう。よく「大きな病気をしてから人が変わったね」と言われる人がいます。これは病気が大きいほど人は気づけるチャンスだということです。私達人類は、地球の病気が末期にならないうちに『足ることを知る』を気付きましょう。今、人類は21世紀を明るくするために【気づき】の時期に入ってきたのだと思います。
 三回にわたってお話ししてきました、【怒り】【愚痴】【足ることを知らぬ欲望】がなぜ『心の三毒』と言われるのかが、わかっていただけたでしょうか。私達はこの毒を作らないためにも、自分と【関係】するものをもう一度見直してみましょう。
 次章では、はまず『親と子』の関係について考えてみましょう。 
  
  
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