第 十 七 章



   


【愛には変わる愛がある】

 【愛】と一口に言っても、仏教とキリスト教では、正反対のとらえかたをしています。
 仏教では『愛欲・渇愛』といって、強い欲望のひとつとしてとらえ、十二因縁では迷いの根源としています。キリスト教では、神が自らを犠牲にして、人間をあまねく限りなく慈しむこととしています。
 同じ心理を説く宗教で、どうしてこのように違う解釈をするのでしょう。【愛】にも種類があるのでしょうか?
 そうです、愛にも【相対】と【絶対】があるのです。つまり、『変わる愛』と『変わらない愛』があるということです。
 まず『変わる愛』というのは、どのような愛なのかを見ていくことにしましょう。「可愛さあまって憎さ百倍」「愛するがゆえの苦しみ」等という言葉を聞いたことがあると思いますが、この言葉のように愛は憎しみに変わるのでしょうか?また愛は苦しみを伴うのでしょうか?
 一般に愛というと、「男女の愛、親子・兄弟の愛、愛国心、人類愛、自然を愛する心」等さまざまですが、やはりそれぞれの愛から喧嘩や戦争がおきています。ではどうして、愛から喧嘩や戦争がおきるのでしょう。
 男女の愛を例にとってみましょう。テレビや映画で恋愛ドラマを見ることがあると思いますが、必ずといっていいほど喧嘩をするか、苦しんでいたりするものです。愛し合っている二人なのに、なにゆえ喧嘩をしたり、苦しんだりしているのでしょうか?それは、皆さんにも経験があると思いますが、相手に対する嫉妬心や猜疑心から喧嘩をしたり、苦しんだりすることが多いのです。
 では、この嫉妬心や猜疑心とは、心のどのような状態なのかと言いますと、自分だけのものにしておきたいとか、自分の思い通りになっていないかもしれない等、【自我】がそこに根を張っている状態なのです。
 この『自我の愛』が『変わる愛』のことなのです。
 親子の愛が、自我の愛だと溺愛になり、社会に出たときマザーコンプレックスとなり、ノイローゼを生み出すことになるのです。愛国心も自我の愛だと、軍国主義になり戦争に発展していくことになります。また、自然を愛する心も自我の愛だと、自然を汚す人を憎み、喧嘩や殺人にまで発展することがあるのです。
 このように、テレビや映画で見る恋愛ドラマはほとんどが自我の愛です。最近流行った『失楽園』などは究極の【自我】でしょう。『自我の愛』とは、自分だけの都合で愛しているという意味です。【愛】と名が付きますから、その時だけは美しそうに見えますが、ひとたび自分の意に添わなかったら、憎悪や敵意に変わるのです。このような愛を愛だと思って信じていたら、大変なことになります。なぜなら、いずれ自分の身を焼き尽くして、自滅していくからです。
 この『自我の愛』を仏教では、迷いの根源として戒めているのです。
   
【変わらない愛とは?】

 では、『変わらない愛』とはどのような愛なのでしょう。
 私達は結婚式の時には『変わらない愛』を誓うはずなのに、どうして浮気や離婚が跡を絶たないのでしょうか?きっと、『変わらない愛』の意味を間違って誓っているのでしょうね。
 ここで、本書十三章でご紹介した高橋信次先生の、愛についての『心の言葉』を参考にしてみます。
   
◆『愛』
 愛と憎しみは諸刃の剣のようにみる者がいるが、そんなことはない
 憎しみは自己保存であり憎しみをかくし持った愛は愛とはいえない
 愛に自己弁護はない
 愛に立場はない
 愛に報奨はない
 愛に自我はない
 愛に甘えはない
 愛に苦しみはない
 愛に楽しみはない
 愛には神の心しかない
 神の心とは調和である
 他を生かし助け合う、補い合う、許し合えるその心が愛の心に通じ
 その行為が神の心につながってゆく
   
 このようにみると、【愛】とは深遠なものです。
 ここで、聖書の一節を紹介します。
   (コリント人への第一の手紙 第7章3〜4節)

 『夫は妻にその分を果たし、妻も同様に夫にその分を果たすべきである。要は自分のからだを自由にすることはできない。それができるのは夫である。夫も同様に自分のからだを自由にすることはできない。それができるのは妻である。互いに拒んではいけない。』
 キリストはこのように言っておられます。結婚式の時に誓う愛はこのようなものではないでしょうか。
 これが『変わらない愛』でしょう。また高橋先生の【愛】の言葉と一致するはずです。
 ところが、私達は結婚すると、自己弁護をし、立場を主張し、報奨を求め、自我をだし、相手に甘え、苦しみや楽しみに溺れてしまうものです。このような愛が、浮気を誘い、離婚をまねくのだと思います。
 【愛】とは『心の言葉』の最後の部分の、『愛には神の心しかない。神の心とは調和である。他を生かし助け合う、補い合う、許し合えるその心が愛の心に通じ、その行為が神の心につながっていく』ということです。
 所謂、宇宙は、相互依存形で全てが成り立っています。この相互依存に必要なエネルギーを【愛】と言うのです。
 この逆のエネルギーが、自己保存の愛で、調和を乱し、破壊に向かっていく愛なのです。『自我の愛・変わる愛』です。
 
【男女の陰陽関係】

 他を生かし助け合い、補い合い、許し合えるには、相手のことをよく知り、理解しないことには出来ません。よく愛し合っているという夫婦であっても、相手の心をすべて理解しているかというと、以外にしていないことがあるのです。まして、夫婦仲の悪い場合は、妻は夫の心理を知らないし、夫は妻の心理を知らないことが多いのです。
 夫婦の心理を知るためには、まず男女の陰陽関係を説明しなくてはなりません。男女の陰陽関係に於いては、『男が陽で能動的』で『女が陰で受動的』だと言ってきました。ところが、本書三章(陰陽@)で説明しましたように、古代中国では、「陰中に陽有り、陽中に陰有り」と言い、また「陰が極まれば陽となり、陽が極まれば陰となる」と言われています。
 正確に言いますと、『男は外が陽で内が陰』『女は外が陰で内が陽』ということになります。
 外とは、肉体的なことで、内とは、精神的なことを言います。言い換えますと、肉体的には、『男が陽の主で女が陰の従』ですが、精神的には、『女が陽の主で男が陰の従』だということになります。
 その証拠に、夫婦でも若い間は男性が主人で頑張っていますが、歳をとって定年でも迎えた夫は、妻の言うことを聞き出して【従】になっていくのです。
 また、歴史を見ても、裏で動かしているのは女性です。それに「犯罪のかげに女あり」とも言うではありませんか。このように、精神的には女が【陽主】であるため、万葉時代の日本は母系家族であり、古代は世界中が母系家族だったのです。


【母性本能は神の愛】

 ではなぜ、精神的に女が主なのでしょうか?
 『変わらない愛』とは、『神の愛』であるとさきほど言いました。この『神の愛』を人間が自然に表現できる唯一の形が『母性本能』なのです。
 女性は全て、生まれもって『母性本能』を持っています。
 さきほどの高橋先生の心の言葉をお借りすると、
   
 母性本能には自己弁護はない
 母性本能には立場はない
 母性本能には報奨はない
 母性本能には自我はない
 母性本能には甘えはない
 母性本能には苦しみはない
 母性本能には楽しみはない
 母性本能には神の心しかない
   
 ということになり、正に母性本能は神の愛です。
 だから、妻はお上さん(お神さん)であり、奥さん(心の奥)と呼ぶのです。また、女を天の使命を持つアマ(天)とも呼ぶのです。
 出産を経験したかたは、よくわかると思いますが、出産はかなり体力を消耗する苦しいことだと聞いています。ところが、とても苦しい目にあったにもかかわらず、出産を終えたあと母親は子供の事だけしか考えていないはずです。苦しい目にあったと言って、子供をひっぱたいたり、恨みや愚痴を言う母親がいるでしょうか。
 母親は『ただ子供の調和だけしか考えていないはずです』

【男性が女性を求める心理】

 これが母性本能で、神の愛です。男性が女性を求めるのは、「この神の愛」を求めていることなのです。男性自身、自分でそのことを知らずに女性を求めていることが多いのです。男性は性的なことだけで女性を求めているのだと思っているのです。オーストリア精神医学者である「フロイト」は『人間の本質を性欲衝動(リビドー)の働きに帰する』としているのです。
 ところが、男性は女性と性的な関係だけだと、むなしさを感じてしまうのはどうしてでしょう?これは男性が、性的なことだけではなく、女性の奥に潜んでいる母性本能(神の心)を求めているという証拠なのです。
 古来、日本は太陽を神として崇めていましたし、また女性も、太陽のごとくあるべきだとしていました。それに男性が女性を口説く文句として「君はぼくの太陽だ」と言うこともそのあらわれです。
 蜂や蟻の世界を見れば、母系家族がいかに調和をとっているかがわかるでしょう。父系家族の場合は、ほとんどが戦いや争いを生み出していくのです。
 昔から、安定した家庭というのは、女性が母親として、しつかり役割を果たしているものなのです。
 本書十三章で御紹介した園頭広周先生は、「女性は、母となって始めて完成するのです」とおっしゃっています。
 では子供を生めなかったら、完成しないのかというと、そうではありません。世の中には『マザー・テレサ』のように独身でも立派な【母】として活躍していた人がいます。
 またことわざで、「一つ勝りの女房は金の草鞋(わらじ)で探しても持て」「姉女房蔵建つ」「姉女房は子程可愛がる」 「姉女房は身代の薬」等々、年上の女房はとても素晴らしいと言っています。これは、妻は自分の夫に対しても、母であるほうがよいのだという意味なのです。

【女性の本性はよき母】

 ところが、最近の女性はどうでしょう。
 テレビでも女性の意見を聞いていますと、男性を親の仇のようにいう女性が増えてきました。これでは、男性は『神の愛』を女性から受け取れず、孤独な男性や凶暴な男性が増えてくるのは必至です。
 子供にいたっては、母親の愛がどれほど必要なのかは、論ずるまでもないことです。
 では、男性はなにもしなくていいのかと言いますと、そうではありません。封建的な亭主関白で女性を性のはけ口だとか、ただの道具のように扱っている男性は、結局自分自身を苦しめることになるのです。
 「男性は女をしてよき母たらしめることに努力しなければならない。女をしてよき母たらしめた時に男の生命は全うされたことになる」「天の使命は女を母たらしめることによって達成されてゆく」と園頭広周先生はおっしゃっています。
 男女の陰陽関係を理解したうえで、夫婦のお互いの心理を知っていくことが大事です。
 たとえば、夫が帰宅して、妻が家にいないと、夫は子供に「お母さん(ママ)は?」と無意識に聞いたりします。そしてしばらくして、妻が帰ってくると、夫は「どこに行ってたんだ」と意味なく聞くのです。
 ところが、世の妻たちは、そんなとき「どこに行こうと人の勝手でしょ」「どうしてあなたは人のことを詮索するの、私を信用してないの?」等と言う場合があります。こんなとき、男性はさみしくなって返す言葉を失うのです。
 これは、子供が母を慕う気持ちと同じように、夫のなかに母性本能(神の心)を求める心が潜在的にあるのです。そのために、無意識に「お母さん(ママ)は?」と言う言葉になるのです。
 こんなとき、妻が「ごめんなさい、おそくなって」の一言で円満にいくのです。
 動物の世界をみても、子供が元気に遊んでいるのは、必ず近くに母親がいるからです。喧嘩して勝っても負けても母親のところへ飛んで帰って甘えています。
 人間の世界も同じなのです。外でどんなことがあっても、家に帰ると母の愛が癒してくれるのです。
 正に、人間と神の関係なのです。
 人間はいつも一人で生きていると思っていても、いざというときは、心で無意識に【神】の名を呼んでしまうのです。
 世の中の女性が、このような母の愛に目覚め、世の中の男性がその愛を受け仕事に精をだし、家族を愛し、国を愛し、自然を愛していけば、『家庭内暴力・登校拒否・いじめ・人種差別・戦争』等のない調和した世の中がおとずれると思います。
 以上のように、『変わる愛・自我の愛』と『変わらない愛・神の愛』とでは、雲泥の差があります。これで、仏教のいう渇愛と、キリスト教のいう愛の違いも理解していただけると思います。
 『神の愛』とは、他力信仰の宗教がいうところの、神の愛とは全く違います。
 最後に高橋先生の心の言葉をもう一つ御紹介します。
   

◇『愛の力』

 山を動かし
 海をわかち
 川をせきとめる力があっても
 愛には抗(あらが)えない
 愛はすべてを癒す神の心である
 人を救うものは超能力ではなく愛の力である
   

 愛の力を心の底から溢れ出すために、まず『ゆるす』ことから始めましょう。次章ではこの『ゆるし』をテーマにお話ししていきます。  
  
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