第 十 四 章



反 省   


反省は楽しい?それとも辛い?】

 さて皆さんは【反省】という言葉を聞いてどのような印象を持ちますか?
 「この言葉が大好きでとてもいい響きです」と言う人が何人いるでしょうか?私は多分、「どうも苦手な言葉なんです」と言われる方のほうが多いと思います。ではどうして【反省】という言葉には「楽しい」という響きがないのでしょう。それは、小さい頃から、悪いことをしたら「反省しなさい」と親に叱られたり、学校では「罰としてうしろに立って反省しなさい」などという言葉がよく耳に入ってきたために、【反省】という言葉のイメージを悪くしたのではないのでしょうか。
 ところが、親が子供に反省を促したり、学校の先生が生徒に反省を強要するということは、人間にとって反省とは、とても大切なものなのだということになります。
 前回ご紹介した高橋信次先生は、『反省は人間に与えられた神の慈悲である』とまでおっしゃっておられます。それなのに私達は、どうして反省は「つらい」「難しい」と思うのでしょう。
どうも、反省そのもののやりかたに問題があるのかもしれません。
   

【反省と後悔の違い】

 それにはまず、反省と後悔の違いを認識しなくてはなりません。私達が反省を「つらい」と思う理由の一つに、反省をしているつもりが、後悔ばかりしているケースがあるのではないでしょうか。
 「あの時のあれは間違いだった、あの時のやり方は別の方法がよかった、ああすればよかった、こうすればよかった・・・」とか「あの時の私は間違っていた、あの時相手にあやまればよかった、私が悪い、私が悪い・・・」等といった内容は反省ではなくて後悔なのです。これでは、すればするほど自分の心が苦しくなるばかりです。
 ほとんどの方が、このやりかたを反省だと思っているのではないでしょうか。反省の目的は自分の心を高め、自分の心を調和することなのです。その為に反省には、【捨てる】という行為が必要になってきます。
 【後悔】とは、終わってしまったことをあれこれと悩むことで、その悩みを捨てきれずにこだわりつづける執着の思いのことです。この思いが心を不調和にしていきます。
 では、この【捨てる】という行為ですが、具体的にはどのようにすればいいのでしょうか?
 ひとくちに、「済んだことはあきらめて忘れなさい」と言われても、その内容によっては、人間なかなか忘れられるものではありません。済んだことをあきらて忘れる為に必要な想念が、【改める】という心のエネルギーなのです。
 「ああすればよかった、こうすればよかった・・・」ではなくて「この次は間違わずにこうしよう」と心を強く攻めることです。また「あの時相手にあやまればよかった、私が悪い、私が悪い・・・」ではなくて、「この次は素直にあやまろう」と決心することです。当たり前のように思われますが、執着の思いを捨てきれず、後悔ばかりしている人にはこの【改める】という決心のエネルギーが足らないのです。特に宗教に入っている人に多いのです。なぜなら『仏罰があたる』とか『地獄におちる』など、また『人は罪深い』とか『人は弱いものだ』などと言われて、なおいっそう後悔をしてしまうのです。
 ところが、次のような場合でも、改めるのでしょうか?一生取り返しがつかないほどの間違いをおかしたときや、相手に素直にあやまろうとしても、相手が死んでいてあやまれない場合。このような場合に必要な考え方が、『人間は永遠の生命を生きている』ということなのです。『永遠の生命』の中では、一生取り返しがつかないほどの間違いをおかしたとしても、次の『生』のために改めようとするのです。また、相手に素直にあやまりたい時、相手が死んでいても、次に会ったときにあやまろうと思えるのです。このように、人間いかなる時でも、悪い考えは【捨てる】そして【改める】という想念を持つことが大切なのです。
このことが、人間の心を向上していく最善の方法なのです。
   

【経営の向上にも反省が必要】

 また、会社の責任者やお店を経営している人は、売上向上のためにミーティングを行うでしょう。   
 この売上向上のミーティングの内容をみても、心の向上の方法と同じ内容だということが言えます。  
たとえばその一例をあげますと、まずお客様に対するサービスに問題はないかを話し合ったとしましょう。そしてその時に数々の問題点が出たとします。皆さんはそのミーティングのスタッフが、その問題点について後悔ばかりしていたらどう思いますか?サービスは向上しないばかりか、みんなの心も暗くなってかえって売り上げも下がっていくでしょう。ましてや「私達は弱い人間です。問題点は神に救ってもらいましょう」などと言っていて売り上げが伸びるでしょうか。
 当然、ミーティングの中では、それぞれ問題点を検討して、その悪い部分は【捨てて】より良い方法に【改めていく】のではないでしょうか。この方法をひとくちでいうと 【反省】というのです。
 反省が「つらい」とか「難しい」と言われるのは、自分の問題点(自分の短所)を見つめるというとが原因なのですが、この間題点がなければ自分が向上しないのだということにもなります。
 私はある人から次のようなお話を聞いたことがあります。ある大手の自動車メーカーの社長さんが、小さな自動車メーカーを吸収して、その工場の効率を上げようとした時のお話です。その社長さんは、その工場の問題点をまず見つけるために、作業中に一つでも問題点があればその作業ラインがストップするというシステムを考え出し、ある日視察に出かけることしました。当然そこの工場長は、はりきって何日も前からスタッフとミーティングを繰り返し、当日万全の体制で社長をお迎えしました。
 さて社長の視察が始まりました。工場内にはチリひとつ落ちていません。スタッフにも緊張が走っていて、きびきびとしています。ところが社長の視察が始まって、ものの10分ほどたった時、はじめはニコニコとしていた社長の顔が一変してこわい顔に変わり、「こんな工場はだめだ」と言い残して帰ってしまいました。
 あとに残された工場長は、何がなんだかわからないまま、ただおろおろするばかりです。あとでスタッフと話し合いましたが、「こんな工場はだめだ」と言われるような原因が見当たりません。その工場長は、勇気をだして社長のところへ行き、だめだという原因を聞きに行きました。
 社長の答えは、「私が視察に行って10分もたっているのに、そのあいだ、なに一つの問題点も見つからないような工場のありかたでは、この先その工場の効率は上がらないだろう」ということでした。
 このように、仕事の向上も同じことで、まず問題点が見つからないと悪い部分を【捨てて】良い方法に【改める】ということができないのです。
   

【プラス思考の間違い】

 私達の心の向上のためには、まず自分の問題点、つまり自分の欠点を見つけることです。
 世の中には、「私は毎日毎日全てに感謝をして生活をしています。人に恨みを持つことも、また恨みをかうこともないので、べつに問題点というものが見あたりません」という方がよくいらっしゃいます。このような方は一見素晴らしそうにみえますが、別の言い方をしますと、心の向上の望めない方だということになります。
 また逆に、「私は欠点ばかりの人間で、どれから改めればよいのかわかりません」という方もいます。この方も、同じように心の向上が望めません。
 最近は【プラス思考】ということがよく言われています。この【プラス思考】の中に、「反省など必要がなく、何事においても自分にとってプラスなのだと考えればいいのです」という考え方の人がいますが、これではたして人間として向上していくのでしょうか。私は、この考え方をしていては、人間何度でも同じことを繰り返してしまうという危険性があると思います。過ちを過ちと認めるから、過ちを改めようとするのです。プラス思考だけで生きている方は、一見明るく見えますが、知らず知らずのうちに相手に迷惑をかけている方が以外に多いのです。以前に私は、反省の大事さを説明していた時に、次のような意見を聞いたことがありました。
 「人間は【善】なのです。本来【悪】という心は人間にはないのです。反省をするために欠点を認めるということは、自分の悪の存在を認めるということになるのです。だから私は全ての出来事を【善】だと解釈して明るく生きていきます」この意見を聞いて皆さんはどう思われますか?はたしてこの考え方で心から明るく生きていけるでしょうか。
 本書で言い続けてきましたように、人間の本質はたしかに【善】です。また【悪】は本来存在しないのだとも言ってきました。


【自分の欠点を見つける必要性】

 ではどうして自分の欠点を見つけるのかということになります。
 この欠点という意味は、自分の【善】を積極的に現していない状態だということです。以前にもお話しましたが、ここでもう一度『善と悪』について説明しますと、【善】とは本来のあるべき姿で、【悪】とはそこに【善】が現れていない状態のことなのです。これを【光】と【闇】でいいますと、光とは光そのもののことで、闇とはそこに光が存在していない状態だということになるのです。
 なにか言葉の遊びのようにも思えますが、そうではありません。このことをしっかりと認識できなければ、『本来、悪なし』の意味が理解できません。たとえば、あなたが財布に一万円を入れて買い物に行ったとしましょう。ある店であなたのほしいものを見つけました。ちょうど値段も一万円です。そこであなたは財布をとりだそうとしてカバンのなかを見ましたが、財布がありません。あなたはきっと財布を忘れてきたんだと思いあきらめようとしました。
 その時、お店の人が「どこか服の中に入ってませんか」と言ってくれたにもかかわらず、あなたは探そうともせず、「いいえ本当に忘れてきたのです」と言って、欲しいものを買えずに帰ってしまいました。家に帰って服を着替えると、服の中から財布が出てきました。あなたは、「ああ、あのとき店の人の言うことを聞いて探していれば欲しいものが買えたのに」と思うでしょう。つまり、あなたはその時、欲しいものが買える力があったにもかかわらず、買えないと思っただけで、欲しいものが買えなかったのです。
 この時の一万円を仮に【善】だとしましょう。あなたはそのお店で、あなたの欲しいものが買える状況であったにもかかわらず、あなたの「忘れた」という思いひとつで、一万円が現せなかったのです。
 つまり【善】が現せなかったということです。この状態を【悪】というのでこれでさきほどの意見を、もう一度見直しましょう。「人間は本来【善】なのです。【悪】という実相は人間にはないのです」ここは、そのとおりだと思います。
 次の「反省をするために欠点を認めるということは、自分の悪の存在を認めるということになるのです。だから私は全ての出来事を【善】だと解釈して明るく生きていきます」ここが問題なのです。これを一万円に置き換えますと、「私は本来一万円を持っているのです。持っていることを忘れるということで、一万円がなくなるということはありません」と、このようになるのでしよう。
 問題の箇所ですが、「忘れたことを反省することは、忘れたことを認めることになるので、一万円がなくなります。だから私は、忘れても一万円はなくならないんだと思って明るく生きていきます」とこのようになります。これでは、欲しい物があってもいつまでも買えませんし、忘れっぼい癖もなおらないばかりか、ますますひどくなっていきそうです。
 また別のたとえでいいますと、「私は人と待ち合わせをしていましたが、電車に乗り遅れて遅刻をしました。でもこのことは、私達にとって、とてもよかったことだ思っています。なぜなら、多分あの電車に乗っていたら、きっとよくないことがあったと思いますし、それに遅れることが、二人の仲を強くしたんだと思います」と、このような意見を聞いてあなたは本当によかったと思いますか?なにか、自己満足だけのような気がしませんか。これでは、相手の気持ちに対する配慮が感じられません。
 たしかに、明るく考えて生きていこうとする気持ちはよくわかります。ところが、この心のなかには、「失敗したことを認めたくない」「後悔したくない」「自分はいつも正しいのだ」という気持ちが存在します。そのことは実は、心のなかにいつも【失敗】【後悔】【正しくない】という心が存在しているということになるのです。


【反省の前に自分の本質を知ること】

 【反省】をするときに、本当に大事なことは、まず自分というものは、本来どのようなものなのかということを、しつかり理解することなのです。なぜなら、「失敗したくない」「後悔したくない」「マイナス思考をしたくない」という考えは、本来自分は「失敗をするものだ」「後悔するものだ」「マイナス思考をするものだ」と思っているのです。自分というものは、『完全なるもの』であるという認識が必要なのです。
 ところが、人間は自分が『完全なるもの』であることを忘れたり、完全なる自分の表現が下手であったりするのです。だから、反省をして自分の欠点が見つかったら、これは本来の自分ではないのだと思って【捨てる】ことです。また本来の自分ならどのようにすればいいのだろうと考え、正しいと思ったことは積極的に【改める】ことです。つまり【改める】とは、本来の自分に戻るのだということになります。
 このような反省をすすめていけば、決して後悔をする反省にはなりません。また反省は、人に強制したり、されたりするものではありません。なぜなら、人間は自主性を重んじているからです。
 子供のころ、「さあ、そろそろ勉強しようかな」と思っているときに、親から「勉強しなさい」と言われたため、勉強をしようという気をなくしたという経験がないですか。これが、『人間は自主性を重んじている』という証拠なのです。 ところが、人間は反省がとても大切なことだと知っているため、ついつい強制をしてしまうのです。
 冒頭に言いましたように、このようなことが、反省という言葉のイメージを悪くしたのだと思います。
 私は、皆さんが自主的な【反省瞑想】をはじめていかれることを心から希望します。この自主性を【自由】といいます。最近はこの自由をはき違えているから、混乱がおきていると思います。
 次章はこの【自由】というテーマでお話しをしています。  
  
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