第 十 三 章
瞑想U
【私と瞑想との出会い】
さて、前回は瞑想の必要性を説明してきましたが、今回はどのような形で、またどのように瞑想をしていけばいいのかということをお話ししていきます。
その前に、どのようにして私が瞑想というものに出会ったのか、また何を参考にして勉強したきたのかということについてお話しをしなければならないと思います。なぜなら、世の中にはあらゆる瞑想や坐禅の指導書が出ているため、初めて瞑想に取り組もうとしている人達には、何を参考にすればいいのかわかりにくいし、またやりかたを間違うと、とんでもない方向に行ってしまうと思うからです。
私は今年で満50才を迎えますが、35才までは無神論者で、意識の世界など全く考えた事もない人間でした。まして、自分の心など見つめる事などしたことがなく、逆に人の考える事が気になる方でした。その時の自分の心を見つめてみると、『人が自分のことについて、どのように思っているのかが気になる』という事は『人から自分のことをよく思ってもらいたい』という心がそこにあったのだということが、今はよくわかるのです。そして「でもその程度の気持ちはだれでもあるのじゃないか」と思われるでしょうが、その心の奥をもっと見つめてみると、『自分はまわりの人々から愛されていないのではないか』という心が見えてくるのです。そしてその心がしだいに劣等感を植付け、やがて『人より優れて人から認められたい』という心を生み出していき、仕事や生活が派手になってくるのです。そのうち、酒を飲むことや、女性と遊ぶことも多くなり、私生活が乱れてきます。そうなると、当然のことながら結果は、火を見るより明らかです。人生最大のピンチがやってきました。
このような結果を招く原因の一つが『自分はまわりの人々から愛されていないのではないか』というほんの些細な心でした。この些細な心が、まるで小さな煙草の火が大きな山火事をおこす如く、大きく広がっていくのです。
ではこの『自分はまわりの人々から愛されていないのではないか』という心は、いつどのように作らていったのでしょう。その原因を調べてその心を修正しないかぎり、私はまた同じことをしてしまうのだということに気づかせていただいたのです。
そのことに気づかせていただいたきっかけが、ある本の出会いでした。ちょうど私の仕事も私生活も、最悪の状態をむかえようとしていたある日、学生時代の先輩からある本を勧められました。そのことをきっかけに、私は心の世界に興味を持つようになっていったのです。それまで私は、本と言えるようなものはあまり読んだことがなかったのですが、突然心に関するものや、宇宙に関するものを読み始める様になるぐらい、その本の影響は大きかったのです。
その本とは、高橋信次著・三宝出版の『心の発見〔神理篇・科学篇・現証篇〕』の三部作です。
その時、是非高橋先生にお会いしてみたいと思ったのですが、残念ながら高橋先生は一九七六年にすでに他界されておられました。
その為か、私は高橋信次先生の出版されている御著書や御講演テープはすべて買い求めました。そして現在も何度もくりかえし勉強いたしております。
この本は是非、皆様にも御一読をお勧めします。
その影響を与えた内容の一つに、何事も信じるまえに疑問を持ちなさいという言葉でした。ただでさえその時の心境は、藁にもすがる気持ちの時です。ところが自分の本の内容ですら、すぐに信じないで、疑問を持ってくださいと書いてあるのです。そして「疑問を追究して追究して疑問がなくなったら、心から信じていきなさい」という言葉に深く感銘を受けたのです。そのことがきっかけで、他の宗教書や心理学の本、果てには超能力の本から霊界の本まで読みあさりました。当然、中国気功や瞑想の本は言うに及ばず。それに『心の発見〔科学篇〕』により、宗教と科学は本来同じものだと書かれていたため、物理に関する本も読み始めました。もちろん専門書は読めないので中学校程度のものですが。
また瞑想は、反省から始めていくことを学んだのも『心の発見』からでした。
もし私が別の指導書に出会って、ただ瞑想は「無念無想になりなさい」とか「お経を唱えて神にすがりなさい」ということを信じて瞑想をしていたら、今頃ノイローゼになっていたと思います。
なぜなら、そんな瞑想ばかりをしていても、自分のつくった心の原因は、一向に変わらないばかりか、逃避的な瞑想になり、現実とのギャップがどんどん広がって、ますます現実の生活がいやになってくるからです。
このように瞑想の指導書を間違うと、とんでもないことになっていくため、皆様には正しい指導書をお勧めしたいと思います。私は自分で蒔いた原因で人生最悪の状態になった時、死を選ばずに今日これたのも、この本に出会って、自分の心を少し修正できたお蔭だと思っております。
また改めて高橋信次先生のことについては、別の機会にお話ししてみたいと思います。
【お薦めする瞑想の指導書】
この反省の仕方だけでいうと、現在刑務所などで実践されている『内観法』というのがあります。内観法とは、奈良県で45年前に、吉本伊信先生が浄土真宗の特殊な一派に伝わる【身調べ】という厳しい行を参考につくられた法です。自分の身のまわりの人々、つまり母親、父、兄弟、姉妹、配偶者、子供、友人・・・といった具合に、
@していただいたこと
Aして返したこと
B迷惑をかけたこと
の三つのテーマに沿って、できるだけ具体的な経験や情景を思い出しながら調べていく法のことです。
この『内観法』については、あらゆる著書がでていますので、参考に読んでみられるとよろしいかと思います。
ここでの瞑想の仕方については、坐禅のもとや、中国気功の静功のもとにもなっている『止観』という言葉で説明していきます。
止観法は、天台宗の開祖智ぎ(五三八年−五九七年)の『摩詞止観十巻』があり、その銅要書といわれた『天台小止観』があります。瞑想をはじめる方には、是非読んで頂きたい一冊です。天台小止観の解説書としては、漢文と現代語訳で書かれてある、大東出版社『天台小止観』関口真大訳がありますが、初めて読む方には難解なため次の一冊をお勧めします。
〜園頭広周著・正法出版社『宇宙即我に至る道(下)・坐禅の作法の原点「天台小止観」の解説』〜
園頭広周先生は高橋先生の教えをよりわかりやすく解説しておられる先生で、私個人的にも心の師として仰いでおります。
ここに『天台小止観』の解説を紹介するには、とうてい紙面が足りません、したがって十章からなる大筋だけをここに紹介させていただきます。(詳しく止観について勉強をしたいかたは、是非、中国気功養生院にお越しください。)
【天台小止観】
この『天台小止観』は、天台大師が、坐禅止観はどのようにしてするものであるかを、初心者にもよくわかるように説かれたもので、弟子の浄弁禅師が書き記されたものです。
【序】
諸(もろもろ)の悪は作(な)すことなかれ
諸の善は奉行(ぶぎょう)せよ
自(おのづ)からその意(こころ)を浄(きよ)めようとする
これ諸仏の教なり
【第一章 具縁(坐禅を始める前の準備)】
@心に不調和を来さないように心を安らかにすること
A着るもの、食べるものに、足ることを知って感謝の心を持つこと
B心を波立たせないで安らかになるような環境を選ぶこと
C今までのことをよく反省して、いけないと気づいたことは、二度としない
ように決心して、心を素直にすること
Dよい人間関係をつくり、よい指導者を得ること
【第二章 呵欲(五官五欲を統制する)】
正しい欲望はよい
@色欲・性欲
A声欲
B香欲
C味欲
D触欲
【第三章 棄蓋(心を暗くする原因となっているものを棄てよ)】
心を暗くする五つの原因
@貪欲の心を棄てよ(心の中の欲念)
A怒りの心を棄てよ
B睡眠の害を棄てよ
Cくよくよ後悔する
D疑いを棄てよ(疑いと疑問は異なる)
【第四章 調和(肉体と精神との調和)】
@飲食物の調節法
A睡眠の調節法
B身体の調節法
C呼吸の調節法
D心の調節法
【第五章 方便行(禅定を深めていくための五つの方便)】
@正しい欲
A精進
B正しい念
C巧みな智慧
D一心
【第六章 正修行(正しい禅定の仕方)】
〈第一〉閑静な場所に坐って実修する方法
禅定実修の五段階
@心が乱れるのをなくするための禅定
A心が沈んだり、浮ついたりするのを治すための禅定
B心が正しくなるように、その時の心の動きを見てする禅定
C心が細やかに動いて定まらないのを治すための禅定
D禅定による心の安らかさと、明らかな智慧とを調和させるための禅定
〈第二〉日常生活をしながら、いつでもどこでも、寝ても覚めても実修する方法
【第七章 善根発(仏心、良心を現す)】
〈第一〉善根が発する相を明かす
@息道の善根が発する相
A不浄観の善根が発する相
B慈心の善根が発する相
C因縁を観ずる善根が発する相
D念仏の善根が発する相
〈第二〉真偽を分別する
〈第三〉禅定によって善根を長養する
【第八章 覚知魔事(悪魔はどのようにして人の心を惑わすかを知れ)】
煩悩魔 陰入界魔 死魔 鬼神魔
【第九章 治病患(病気を治す法)】
@どうして病気になるのかを知る
A治す方法を知る
B心の病を治す十の方法
【第十章 証果(禅定の功徳)】
以上が『天台小止観』の大筋です。
瞑想を初めて勉強する方は、これだけを見てもあまりピンとこないかもしれません。まず瞑想を始める時は反省から始めて下さい。
【反省のための十法】
瞑想の第一段階は【反省】です。
そのために、反省の十法を、園頭先生の『宇宙即我に至る道(下)』よりご紹介させて戴きます。
【一】神がつくられた法(これを仏法とも、正法ともいう)は、人間の我の心をもってしては、どのようにも変更を加えようはないのであって、ただ、その法には、素直に順う以外にないものであることを知って、そのことに畏れを感ずること。
法とはつぎのことをいう。
@生命、エネルギー不滅の法則
A原因と結果の法則 動・反動の法則 作用・反作用の法則
B循環の法則
C慣性の法則
D波長共鳴の法則
類は類を以て集まるこの法則は科学の法則でもある。宗教と科学は一致するのである。
【二】よって、善因善果、悪因悪果の因縁の法則を信ずること。
一切の運命は自分白身の責任である。自分が不幸になったのは、自分自身の心に原因があったことに気づかないで、他に原因があると思うから、他を憎んだり、怨んだりするのである。
現在の自分は、すべて自分の責任であることをよく知ること。
【三】深く懺悔、慚愧の心を起こすこと。
原因と結果の因縁の法則によって、これまでの自分を反省してみる時、相手が悪いとのみ思ってきたことも、実際は自分が間違っていたことに気がついて、申し訳ない、恥ずかしい等という心が起こってくるものである。そういう「反省の心」が大事である。
【四】間違った罪を全部思い出して、隠さないこと。
人間は、誰でもが秘密を持っている。この秘密がみんなにわかつてしまったら、とても大きな顔をして外に歩くわけにはゆかないというような、誰も知らない恥ずかしい秘密をもっているものである。たとえどんな秘密であっても、どんな小さなことでも、全部思い出して反省することである。思い出すことは、思いが堂々めぐりすることがあるから、一歳から五歳、五歳から十歳、十歳から十五歳というように、年齢順に反省したことを書く方がよい。
【五】もろもろの罪をなくするには、どうすればよいか、その方法を求めること。
@反省すること。
A二度と同じ間違いを犯さないことを誓うこと。
B迷惑をかけた相手に詫びること。もしその人が死んでいる場合は、その人が生きているように思い、その人を心の中に描いて詫びること。
C最後に、人間は神の子であることを知ること。
【六】ともすれば、間違いをつづけそうになる心を、断乎として絶つことを決心すること。
惰性でずるずると、同じ間違いを続けそうになる弱い心を、きっばりと断ち切って、自分が強くなること。
【七】正しく法に従って、生きる心を起こすこと。
人間が幸福になるためには、断乎として自分の過去を切り捨てることが大事である。いつまでも過去の古傷、罪を心にとめて、心を暗くしていたのでは、心はいつも過去につながれて前進できない。過去を切捨てて、正しく生きることを決心すること。
【八】罪は本来、実体なきものであり、自分の心が、「罪だ、罪だ」と執着している間だけ存在しているものであり、本来自性なきものであることを悟り、ひとたび反省して、再び、過ちを犯さないことを誓った以上は、過ちに心を囚われないこと。
罪は、偽象であって真象でない。「罪だ」と心が握っている間だけ、罪の意識はあるのであって「罪、本来なし」である。よいことをした時は、よいことをしていけなかったとは思わない。ますます、よいことをしようと思う。わるいことをした時は、「もう二度とわるいことはすまい」と思う。
人間の実相(本当の相)は、神の子、仏の子であって、罪を犯すことはいけないことであると知っている自分が、本当の自分である。
【九】常に、我が心の内に、また外に、神の生命、仏の生命が充ち満ちていることを信ずること。
天地自然、鉱物、植物、動物も、勿論人間も、すべては神(仏)の創造である。自分の肉体の構造機能もすべて神の創造の世界である。「空気は誰がつくったのか」「水は誰がつくったのか」「太陽は・・・」「地球は・・・」と考えてゆくと、この世界は、神(仏)の生命が充満した世界である。
天体のふしぎな運行をみてもわかる。
「神(仏)に生かされてありがたい」という心になり切ることである。
【十】神(仏)の慈悲・愛に生かされていることに感謝し、神(仏)への報恩の心を起こし、自分一人だけが救われたことを喜ばずに、多くの人々とともに救われることを願うこと。
神(仏)に感謝することができたら、今度は報恩の心を起こすことである。感謝と報恩、この二つは常に伴わなければいけない。感謝したら報恩するのが、循環の法則である。吸ったら吐く、食べたら出す、受けたら返す。自然はすべてそのように働いていて調和さている。
人間は、自分一人だけが救われたのでは満足できない心がある。みんなと一緒に救われたいという心がある。その心を大事にして、人が救われることに力を貸すこと。
そうすることによって、神(仏)と人間との連がりはますます強く深められてゆくのである。
前記のことをしっかりと心に銘記して瞑想をはじめてください。
しかし、実際にしてみると、『難しい』『仕方がよくわからない』という言葉をよく聞きます。
次回はこの反省の仕方をわかりやすく説明していきます。
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