第 十 二 章



瞑想T   


瞑想は何のためにする?

 瞑想の大事さはこの本で何度かお話ししてきたと思いますが、ここではもう少し詳しく、『何の為にするのか』『どの様にするのか』ということについてお話ししていきます。【瞑想・坐禅・止観】等、いろんな呼び名がありますが、基本的に追求する目的は同じものだと思って下さい。
 ここでは総称として【瞑想】と呼びます。では、私達は何故瞑想が必要なのでしょう。
 ある人は、瞑想とは「何も考えないことです」つまり「無念無想です」と言い、ある人は「雑念を払って無になるのです」と言い、ある人は「超意識状態になるのです」などと言われるかたがおられますが、では「何のためにするのですか?」と質問したらどうでしょう。
 瞑想はリラックスのためにするのだとか、潜在能力の開発のためだとか、直感力を養うためだとかという意見をよく聞きます。でも私は、リラックスのためなら温泉に行けばいいと思いますし、また潜在能力を開発したり直感力を養ったりしなくても、毎日を安心して生活が出来ればそれに越したことはないと思います。それに、釈迦やキリストのような普の聖人といわれる人達は、このようなことのために瞑想をしたのでしょうか? 
 いいえ、私はそうではないと思います。
 それでは瞑想とは何のためにするのでしょう。


【宇宙の全てのものには相対と絶対がある】

 その説明をするためには、ここで少し話がややこしくなりますが、【相対】と【絶対】の違いを説明をしなくてはなりません。「相対」とは、『他に対して在るもの。他との関係において在るもの。一定の関係、一定の状況においてだけ妥当するもの。(広辞苑より)』という意味です。
 このことを、『親子』『兄弟』という関係で説明してみます。
 私達は親子の問題で話し合う時、よく「親が先に生まれたんだから」ということを言います。この言葉は正確に言うと間違いなのです。なぜなら、親は子供が「オギャー」と生まれるまでは【親】とは呼ばないのです。逆に子供も生まれるまで【子】とは呼びません。所謂、親子関係は『同時』に生まれるのです。だから私達は「親は(人間)として先に生まれたんだから」と言うのが正しい言い方でしょう。
 では、二人目の子が出来ると、親が先なのでしょうか?一般に一人目の子が男の子の場合、二人目の子が女の子なら長女といい、男の子なら次男といいますが、親にとっては長女でも次男でも初めての体験なのです。つまり、この時の親子関係も同時に生まれるのです。また、兄弟の関係を見ても同じことが言えます。兄は弟が生まれた瞬間に兄になるのです。
 このように相手の立場によって、同時に関係の内容が変化することを「相対」といい、本書三、四章【陰陽@A】でもお話しましたが、「陰陽関係・能動受動関係」のことを【相対関係】といいます。
 では絶対とは、『他に並ぶもののないこと。一切他から制限・拘束されないこと。絶対者に同じ。(広辞苑より)』という意味です。
 このことをまた、『親子』『兄弟』という関係で説明してみましょう。私達は親子喧嘩で次の様な言葉をよく聞きます。「もう親でも子でもないお前とは親子の縁を切る。」この言葉も正確には間違いなのです。なぜなら肉体的な親子関係は一生くずせないのです。遺伝子は親からもらったものですし、出産した事実は変えられないのです。だから正しくは「もうお前とは親子のような付き合いはしない。」という言い方になるのでしょう。兄弟の関係も然りです。兄弟のような付き合いはやめれるが、兄弟の縁は切れないのです。関係というものは、変化しつづけるものですが、別の見方をすると、変化しない一切他から制限・拘束されないものも在ると言うことです。
 このように親子・兄弟の関係の中にも『相対』と『絶対』が含まれているのです。
 わかりやすくいいますと、あなたに兄弟や子供がいるとしましょう。すると、あなたと子供の親子関係は一生変わりませんが、時には喧嘩をしたり、喜びあったりと日々関係が変化します。また、兄弟の関係も同じように一生兄弟ですが、喧嘩をしたり喜びあったりと日々関係が変化します。それに、あなたは親になったり、兄になったり、相手によって関係は変化しますが、あなたは変わらないということです。以上の説明でわかって頂いたと思いますが、相手によって立場がころころと変化するものを『相対』といい、ずっと変化しないものを『絶対』といいます。そして、この宇宙の森羅万象に、この相対と絶対が含まれているのです。
 たとえば、あなたの肉体を見ても、細胞分裂をしているため、あなたの身体は数年問で全部入れ替わるのです。ということは、数年前のあなたの身体と今のあなたの身体は違うものだということになります。ところが、『あなた自身』は変わっていないはずです。
 また地球を見ても、陸地や河の形、それに天候などは大昔と今とでは随分違っていると思いますが、河が山から海に流れていることや、雨が天から降ってくることなどの自然の法則は大昔から変化していません。
 また、宇田を見ても、古い星はどんどん死んでいき、新しい星が数限り無く誕生していくということにより、宇宙は無限に変化しつづけていますが、宇宙の質量は一切変化しません。
 このように見ると、この宇宙のことを仏教では『諸行無常』といい、全ては変化し続ける世界だと言っていますが、これでは片手落ちで、その真に変化しない世界があるのだと言わなければなりません。
 その変化しないものを【法】というのです。言い換えると【真理】といいます。
 

【心にも相対と絶対がある】

 では、【法】つまり【真理】とは、どのような目的を持っているのでしょうか?それは、物理の法則を見てもわかるように、全てを調和しようという目的を持っているのです。この目的意識のことを、『慈悲の心』といい、宗教的には『神の心』というのです。
 そうすると、私達の心そのものにも、変化するものと、変化しないものがあるのでしょうか?ほとんどの人が、私達の心というものは実体の無いもので、ころころと変化していくものだと思っているのではないでしょうか。
 たとえば男女関係をみても、結婚式で変わらぬ愛を誓った者同士が離婚してみたり、男性はよく浮気をして家庭をもめさせたり、女性も「女心と秋の空」ということがあります。それに「三日坊主」という言葉があるように、はじめは何事も頑張って続けようという気持ちがあっても、なにかにつけ気持ちは変わりやすいものです。このように私達は『迷い』つづけているように見えます。仏教で言うところの『煩悩』なのでしょう。
 つまり、私達の心は、【善の心】と【悪の心】があって、絶えず葛藤しているのだといえます。これは、相対の関係だと言えます。しかし、私達の心には【絶対の心】があるはずです。【絶対の心】とは【変わらない心】という意味です。
 ではこの【変わらない心】とはどのような心なのでしょう。


【人間の本質は善か悪か?】

 中国の孟子は『性善説』を唱えていますが、荀子は『性悪説』を唱えています。
 欧米の学者でも、「人間というものは、そのままにしておくと悪いことをするものだ、その証拠に、子供は教えなくても生まれてから成長するうちに、悪いことをしていくではないか」というような意見の人が多くなっています。そういえば、キリスト教でも仏教でも「私達人間は生まれながらに罪深いものです」等という言葉をよく聞きます。
 このように、私達の心の本質は【悪】なのでしょうか?ところが仮に、私達の心の本質が【悪】だとすれば、私達は善業を積む必要がなくなるのではありませんか。なぜなら、私達の本質が男性なら、男らしく生きるのが男の幸せですし、本質が女なら、女らしく生きるのが女の幸せであるはずだからです。また、心の本質が【悪】ならば、悪いことをするたびに、幸せを感じなければおかしいのです。
 ここで私達の心の本質についてもう一度見直してみましょう。
 私達は、ついつい悪いことしてしまうことは事実です。しかし私達の心はそれを喜んでいるでしょうか。否、そうではないでしょう。私達の心は「また悪いことをしてしまった。これではいけない良い人間になろう、真人間になろう」と思うはずです。
 それは、私達の心の本質が【善】だからではないでしょうか。そうです、私達の心の本質は【善のみの心】なのです。
 これが【変わらない心】つまり【絶対の心】です。


【善とは何?悪とは何?】

 では、その善の心とか、悪の心は何を基準にしているのでしょうか?
 【善】だと思っても、相手にとっては【悪】になる場合があります。昔の仇討ちなどは、仇討ちをするほうの家族にとっては【善】ですが、仇討ちされるほうの家族にとっては【悪】です。それに仇討ちのすけだちをする人がいますが、これも仇討ちをする家族にとっては【善】ですが、仇討ちをされる家族にとっては【悪】になるでしょう。また仇討ち、江戸時代では【善】でも現代では【悪】になります。
 つまり、【善悪】の基準は、あるものを調和することが【善】で、あるものを調和させないことが【悪】なのです。このように【善悪】も相対的で、ある人には【善】でも、ある人にとっては【悪】になるのだということがよくわかります。
 ところが、この相対的に対して絶対の心が【善のみの心】で、その基準こそが『森羅万象の調和』なのです。所謂、真の【善の心】とは、全ての調和を目的とした心のことで、【悪の心】とは、全てを調和しようという心に反した心だということです。さきほど説明したように、全ての調和を目的とした心のことを『慈悲の心』また『神の心』というのです。仏教では『仏心』といい、道徳では『良心』というのです。
 このように、私達の「心の本質が善」であるがため、「善」の行いをしたとき、私達の心は喜びを感じるのです。


【悪の心は本来存在しない】

 では、心の本質が「善」のみであれば、悪の心とは『実在の心ではない』ということになります。
 そうです、実在でないものを、さも実在のように思う心を『迷い』というのです。たとえて言いますと、人は困難なことに出くわしたとき「これは私には無理です。私には出来ません」などとよく言います。しかしそれが出来た時には、「その時は出来るとは思わなかったのです」などという言い訳をします。なかには「出来ないといったら出来ないのです」と言い張る人もいます。ところが、実際には人にはやれば出来る力を持っているのです。このことを、上杉鷹山は「なせばなる、なさねばならぬなに事も、ならぬは人のなさぬなりけり」といっているのです。
 この「出来ないという心」が『迷い』であり『実在の心ではない』ということなのです。私達は、自分自身の心の本質は『真・善・美』であるということを認識して、それを行為に現すことを目的としています。この認識のことを『悟り』というのです。またその行為を現して行くときのエネルギーを『愛』というのです。
 繰り返して言います。私達の心の本質が『慈悲』でその本質を現す行為を『愛』といいます。
 私達人間は、如何に慈悲の心と愛の行為が必要なのかわかっていただけるでしょうか。


【瞑想はリラックスのためではない】

 話が長くなりましたが、このように心の本質が『善のみ』であるということを認識する唯一の方法が【瞑想】なのです。瞑想はリラックスのためや、潜在能力の開発や、直感力を養うためではないという意味がわかって貰えたでしょうか。また「雑念を払って無になる」とか「無念無想になる」とか「超意識の状態になる」ことが瞑想の目的だというのは、ナンセンスなのだとわかっていただけるでしょうか。
 自分白身の心の本質が、善なのか悪なのかわからずに生きていくことは、自分が誰なのかわからずに生きていくことと同じことですし、また何の為に生きているのかわからないことと同じなのです。これの対処方法として、現代的な言葉で言いますと、『自己実現』『自己啓発』『自己の可能性を見出す』等という言い方になるのです。
 世の中には、次のようなことをいう人がいます。「私はもともと出来ない人間だから頑張って自己実現をするのだ」とか「私はもともと弱い人間なので、自分を磨いて自己の可能性を見出すのです」この言い方をよく考えてみてください。細かいようですが、言い方に矛盾があるのです。

 ・もともと出来ない人間ならいくら努力しても出来ないのです。
 ・もともと弱い人間なら最後まで弱いはずです。
 ・もともと出来るのが人間だから努力するとできるのです。
 ・もともと強いのが人間だから、自分を磨くと可能性が出てくるのです。

 このように先ず、自分の本質を見つけないと、途中であきらめたり挫折したりするのです。自分の本質を見つけだすことを『悟り』と言い、その心をいつまでも忘れない事を、『不動心』『不退転の心』というのです。
 私達の【人生】というのは、私達の心の本質を表現していくことをいうのです。
 その心の本質を、間違って理解していたり、心の本質がわからなかったら、当然、自分の人生が不安定になってくるのは無理のないことです。私達の心の本質を理解して、それをいつも忘れないように日々生活していくことは、とても大切なことですが、その心の本質を理解し、確認していくためにも、毎日最低30分以上の「瞑想」をして頂きたいものです。どうしても、忙しくて時間のとれないかたは、せめて一週間に一回だけはしてください。
 ではこの瞑想のしかたというものについて、次章でお話をしていきたいと思います。 
  
   
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