第 十 五 章



自 由   


【人間は本当に自由?】

 最近、「何をするのも個人の自由だ」とか「人間には自由がある」等という言葉をよく耳にしますが、皆さんは自由とは一体なんだと思われますか。国語辞典を見ますと、【自由】とは、
 @他からじゃまされたり、制限を受けたりしないこと。
 A心のまま。思いのまま。 とあります。
 この@の意味だと、「人間とはなんと不自由なものなのだ」と思いませんか? なぜなら人間社会において、邪魔をされないで生きていくことは不可能ですし、制限を受けたりしないことなどありえないからです。たとえば、私達の身体でいいますと、「オギャー」と生まれた時から私達の身体は病原菌に邪魔をされていますし、体力や年齢にもある一定の制限があるではありませんか。それに、地球の自転と公転によって、昼夜の制限や春夏秋冬の制限、また重力の制限等の影響を受けています。所謂、宇宙の法則によって、私達は肉体の制限を受けているということになります。
 またAの意味ではどうでしょう。心のまま、思いのままとありますが、皆さんは、本心からの心を、自由に描けているでしょうか。五官煩悩に邪魔をされたり、制限されたりしているはずです。それに心のままに生きようとしても、法律や慣習に邪魔をされたり、制限を受けてしまうでしょう。つまり、自分自身の心を安らかにしようと思っても、環境や五官によって心はイライラしたり、不安におそわれるように、私達の心は不自由ではないでしょうか。
 そうすると、さきほどの「何をするのも個人の自由だ」とか「人間には自由がある」等という意見は、正確に言うと間違いだということになってきませんか。正しくは、「何をするにも個人に自由がない」とか「人間には自由がない」となってくるはずです。
 ところが、一般にいう自由とは、たぶん【社会的束縛】【家庭的束縛】【思想的束縛】等から解放されることをいうのでしょう。


【規則は何のためにあるのか】

 とくに最近では、自由というと、規則を破ることの代名詞になっています。はたして、すべての規則を破ことが、本当の自由と言えるでしょうか。ここでよく考えてみてください。規則を破るのが自由であれば、規則を守るのも自由だと言えるのではないでしょうか。
 自己中心の人に多いのが、「誰がこんな規則を決めたんだ。どうして私がその規則を守らねばならないんだ。人間は自由だし、所詮、規則なんて破るためにあるんじゃないか」という意見でしょう。このような意見の人が増えてくれば、人間社会の秩序はどうなるのでしょう。人間社会は崩壊し、結局その意見の人々自身も崩壊していくでしょう。「所詮、規則なんて破るためにあるんじゃないか」という意見をたしかによく聞きますが、規則は本当になんのためにあるのでしょう?
 人を働かすためでしょうか?人を罰するためでしょうか?すべての効率を上げるためでしょうか?その社会を維持するためでしょうか?皆さんは、学校校則や交通法規や憲法などは、なにを目的にしていると思われるでしょう。
 そのためには、まず自然界の法則からみてみましょう。自然界の法則とは、一般には物理の法則ですが、自然界とは人間も含みますので、心理の法則も自然界の法則だといっていいでしよう。このことを仏教では【仏法】とか【真理】といいます。そして【諸法無我】といいます。
 では、諸法は無我ということは、諸法には、なんの目的もないということなのでしょうか?
 いいえ、そんなことはないでしょう。宇宙を見ればその答えが自ずからでています。宇宙はどこからみても【調和】そのものです。この調和を維持しているのが、法則なのです。つまり、諸法には人間のような「小さな我」などはなく、【調和】そのものを目的にした【大我】だけだと言えます。
 このように、【法】にはどのような目的があるのかが、わかっていただけると思います。目的があるということは、つまり【意志】があるということです。この宇宙の【意志】を、宗教的には【神】というのでしょう。
 話を戻しますと、学校校則や交通法規や憲法などのあらゆる規則は、すべてその社会の調和を目的にして作られなければならないということになります。世の中にはあらゆる規則がありますが、その全ての規則が調和を目的にして作られているのでしょうか。なかには、ただ人を働かすためだけの規則や、ただ効率をあげるためだけの規則もあると思います。そのような規則に遭遇したとき、人間は規則を破りたくなるのでしょう。
 しかし、私達はなんでもかんでも自由自由といって、あらゆる規則に反発していけば、そのうち私達の調和が破壊されるということになります。


【自由の本来の意味】

 ここでもういちど【自由】という言葉を見直してみましょう。自由という字は、『みずからによる』と書きます。ではこの【自】とはどういう意味でしょう。『自分』『自在』『自然』『自身』『自信』『自力』等々ありますが、皆さんがよく使う『自分』という字でみていきましょう。
 自分とは『みずからのぶん』と書きます。つまり『自』というものから『分かれてきた』ということになります。ここでスイスの心理学者のユングの言葉を借りて説明します。ユングは「大洋にある島々が、海の上では別々の島のように見えているが、海の下では、ひとつに繋がっているがごとく、人間の意識もひとりひとり別々の意識のように思われるが、意識の底ではひとつに繋がっているのだ」と言っています。このひとつのところを、ユングは『集合的無意識』と呼んでいます。
 この『集合的無意識』を『自』と置き換えてみましょう。そうすると我々は、自から分かれてきたんだといえます。そしてこの『自』を形に現してみると、「みずからをしからしめる」つまり『自然』ということになってきます。言い換えると、自然の心が『自』ということです。つまり、自分とは自然の一部だという意味になります。また、『自然の心』とは、宗教的にいうところの『神』と同義語になるのです。すると、自分とは、神から分かれてきたもの、神の分身ということにもなります。以上のことから考えてみても、『自由』という意味は『神の意識に由るものだ』ということになってきます。
 さきほど言ったように、神の意識は全ての調和を目的にしていますので、『自由とは全ての調和を目的とした法則を守り、全ての調和を目的としない法則は守らない』というのが正しい解釈ではないでしょうか。「何をするのも個人の自由だ」「人間には自由がある」の意味がかなり変わってきます。
 正しく言うと、「いついかなるときも、全ての調和を目的とした生き方を、個人個人で選ぷ権利がある」「人間には全ての調和を選ぶ権利がある」ということになるのです。
 私達は自分だけの一時的調和を自由だと勘違いして、「何をするのも個人の自由だ」「人間には自由がある」と言っているのです。


【自由と責任】

 このように私達は自由をはき違えて生活をしていることが多いのです。ところが、私達にとっては、自由をはき違えて生活をしていること自体が、本当の自由をつかむための魂の修行になっているのだということです。そのために【自由】には、【責任】というものがつきものになってくるのです。ここでいう【責任】の意味は、調和をみだした反動のことです。
 社会的には、人のものを盗んだり、人を傷つけたりすると、法律によって責任を取らされますし、また、自然界では、公害を出したり、植物をむやみに伐採したり、動物をむだに殺したりすると、自然の法則によって責任をとらされるのです。
 しかし、本来の自由には責任がともなわないのです。なぜなら、さきほど言いましたように、本来の自由とは『全ての調和を目的とした法則を守り、全ての調和を目的としない法則は守らない』ということなので、調和をみだした反動がないのです。それに、全ての調和を目的とした法則を守ることは、人間にとってこのうえない喜びになるのです。
 十二章【瞑想@】の『宇宙の全てのものには相対と絶対がある』ということを思い出してください。よく考えると、この【自由】にも相対と絶対があるということがわかります。自由に責任がともなってくる場合は、『相対の自由』です。
 個人の自由を通す場合は、必ず社会的責任がともなってきます。この社会的責任とは、全体調和の目的と、個人的調和の目的のギャップの埋め合わせのことなのです。わかりやすくいいますと、自分個人がいくらいいことだ思っても、他の人に迷惑をかけるなら、それは責任をともなうということです。また、家族にとって、また国にとって、地球にとっていくらいいことだといっても、他に迷惑をかけると責任をともなうということです。
 ところが、『絶対の自由』とは、全てのものを調和することなので、他に迷惑をかけることがないのです。


【個人の自由を間違うと国が滅びる】

 私達の社会を見れば、歴史的環境や教育によって、自由のレベルはどんどん違ってきていると言えるでしょう。たとえば自由の国アメリカは、調和されているでしょうか。人種差別問題に家庭内暴力や校内暴力、覚醒剤や麻薬汚染、自由の国のはずが、不自由の国になっているではありませんか。我々日本人も然りです。アメリカの影響を受けて、個人の自由、個人の自由を主張するようになってから、どうでしょう。いじめ問題、覚醒剤、援助交際、年少者の殺人事件など、大きな社会的責任問題が増えているではありませんか。
 本来、個人の自由も、国の自由も、地球の自由も、宇宙の自由も同じものでなければならないのです。なぜなら、全てのものを調和する『絶対の自由』は『個人の自由』と相反してはいけないのです。最近の『個人の自由』は快楽主義、刹那主義の自由で、宇宙全体の調和のエネルギーを弱めていきます。身体でいうところのガン細胞に匹敵します。このガン細胞が広がっていきますと、我々人類は瀕死の状態に追い込まれます。手遅れにならないうちに、私達は本当の自由を見つけだして実践してゆかなければなりません。そのためにも、早く発ガン物質に気がついて、それを取り除かなければなりません。


【進歩と便利の危険性】

 身体の病気が、どのように増えてきたかを見れば、よくわかるはずです。インスタント食品、農薬を多く使った大量生産、見た目を椅麗に加工等々、『早く出来て、安くて、美味しいもの』ばかりを追究
してきたための反動が、病気として現れています。
 それに、四季の食べ物は、温室栽培や養殖で年がら年中ありますし、運送の発達で現地の食べ物が、日本中から世界中から食卓に届きます。それは便利でいいじゃないかと思われるでしょうが、これが危険なのです。昔の健康法は『その土地で取れた旬のものを食べること』でした。なぜなら、それには【気】というエネルギーが関与するのです。句のものには、自然の気が豊富に含まれていますし、生活している土地で取れた物を食べると、身体の気と食べ物の気がよく馴染むのです。よく旅行をして水が変わると身体をこわすというのがそれです。しかし昔のように時間をかけて旅行をしていると、身体の気がその土地の気に馴染んでくるということはあるのです。
 いかに便利なことは、身体に悪いのかがわかっていただけるでしょう。
 また、心にたいする発ガン物質はというと、個人主義を煽るマスコミの情報です。テレビ、週刊誌、コンピューター等のマスメディアは、『性欲、食欲、金銭欲、名誉欲、自己顕示欲等』をそそるものばかりです。所謂、仏教の五官煩悩を刺激するものばかりです。
 それに食べ物のときと同じように、世の中がどんどん便利になって、コンピューター社会が進んでいくことはとても危険なのです。なぜなら、このままコンピューター社会が進みますと、全世界の統制をコンピューターが管理していくようになるでしょう。電子マネー、戸籍の番号登録制、コンピューター教育、防犯システム等々あげたらきりがありません。
 ではどうしてコンピューター管理社会が危険なのでしょう。
 それは、さきほどの『絶対の自由』とは全てのものを調和することが目的だといいました。しかし、コンピューター管理社会は、社会を管理することが目的なのです。全てのものを調和するのは、【心】がするものなのです。コンピューターがするのは、調和ではなくて支配なのです。それに、全てのものを調和するには、【融通】が必要なのです。ところがコンピューターには、【融通】というものがありません。当然、コンピューターを使うのは人間なのですが、コンピューターを使っているうちに、【融通】がきかなくなるのです。このことを、心ない人が利用すると、世界支配も可能になってくるのです。
 このように、世の中がどんどん便利になって、コンピューター社会が進んでいくことはとても危険なのです。


【真の自由】

 『絶対の自由』を忘れて『個人の自由』が増えてきますと、全体の調和が崩れて混乱が起きてくるのです。さきほど言いましたように、『絶対の自由』と『個人の自由』は同じ目的でなければならないのです。ところが、私達が一般に使っている『個人の自由』とは『執着』のことなのです。『絶対の自由』を得るためには、執着の心をまず捨て去ることです。執着は倣慢、逃避、中傷、妬み、愚痴、争い、独善、排斥、差別、自己顕示、自己満足を生み出していきます。
 私達はこのような時代だからこそ、『真の自由』を理解することができるのです。【自由】とは、人の心のことをいうのです。人の心は無限の広がりを持ち、この世にもあの世にも通じ、宇宙の全ての真理を知っているのです。執着の心が消え去ったときから、心の自由が体験出来るのです。執着の心を取り去るには、変化し続ける物質の世界に心をとらわれないで、心の偉大性を知ることです。あなた自身が宇宙だと、認識できた時から、私達は【真の自由】を体感していくのです。
 次章は自由と同じように大切な平等という概念をお話しします。   
  
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