第 五 章



ゆ ら ぎ


【1/fのゆらぎ】

 今回は【ゆらぎ】という宇宙の法則について、お話ししていきましょう。
 この自然界のもので、ゆらがないものは一切ないのです。『一章 気とは何』で説明したように、【気】とはエネルギーの事です。エネルギーとは【波】の事で、波とはゆらいでいる状態の事を言うのです。
 しかし私達は【ゆらぎ】という言葉を、良い意味にも悪い意味にも使っています。例えば「ゆりかご」とか「ゆらりゆらり」などと言うと、気持ちよさそうな感じがしますが、「気持ちがゆらぐ」とか「動揺する」などと言うと、逆によくない意味に使います。また「ブレ・ズレ・不規則・雑音・汚れ・不純」などと言ったら、もう嫌われもののように思われています。
 ところが、この宇宙のあらゆる動きには、「ブレ」や「雑音」があるのです。その中に『1/fのゆらぎ』というものがあります。【f】とは周波数(フリークエンシー)の事です。
 例えば、山や森に行かれた時に、木陰で休み、風にあたり、川のせせらぎの音を聞いてみて下さい。何とも言えない心地良さを感じる事があります。ところがこの川のせせらぎの音は、規則正しい音ではなく、不規則な音です。また風も不規則に吹いています。この不規則さが、『1/fゆらぎ』でゆらいでいるのです。


【ズレと雑音はいらないの?】

 「ズレ」でいうなら、規則正しいと思われている天体の運動も、厳密には微妙なズレをともなっているのです。
 私達の身体の心臓の鼓動のリズムはどうでしょう?健康人が安静状態にある時でも、10%前後「ズレ」ている事がわかっています。つまり少し不整脈だということです。
 「雑音」でいうなら、電気回路には常に雑音があります。テレビの放送終了後「ザー」という音などがそうです。
ではこの「ズレ」や「雑音」はいらないのでしょうか。 電気回路では、雑音がなければ発振回路が発振しないのです。また胎児の心拍データの中で、母親が妊娠中毒にかかって重体になると、胎児の心拍が非常に規則的になり、母親を治療して母子とも元気になると、また胎児の心拍が大きくゆらぎ始めるのだそうです。
 西洋建築と日本建築を比べて下さい。西洋建築はシンメトリー(左石対称)が多く定規とコンパスでデザインしたようなものです。その点、日本建築には遊びやズレが多くあります。「床の間・欄間・違い棚」などを見れば、それがよくわかります。『日本庭園』にいたっては、西洋式の庭園との違いがはっきりわかります。
 はじめは西洋建築のほうが美しくみえますが、長く生活してみるとどうでしょう?どうも日本建築の方が、はるかに心に優しく感じられできます。機械で大量生産された歪みのない製品と少し歪みのある手作りの品物を比べて下さい。どちらが心に優しいでしょう?
 このように「ズレ」や「雑音」つまり【ゆらぎ】が有るのと無いのでは、心に感じる優しさが違うのです。


【汚れや不純はどう?】

 では、「汚れ」や「不純」というのはどうでしょうか?
 私達の身体にとても大切な【水】と【塩】を見てみましょう。【水】は自然のミネラルが適度に含まれているものが身体に良いし、【塩】もにがりを含んだものでないと、身体に良くありません。蒸留水では私達は生きていけないのです。塩もNaCl99%以上のイオン化学塩では身体に良くありません。
難病の治る奇跡の温泉などと言われる水や、奇跡の名水と言われる水にはH2О以外に、あらゆる自然の成分が含まれています。つまり純粋な水ではないという事です。
 塩もそうです。現在、塩分の取りすぎが問題になり、減塩ブームですが、これはイオン化学塩の事で、天然の海水塩は、本来身体にとても良いのです。以前病院でも、食塩注射(リンゲル液)といって生理的食塩水を血液の代用として使っていたのです。また、戦時中負傷した重症の兵士に、海水を注射したという記録もあります。このように水も塩も大事ですが、純粋なものでは、身体によくないのです。また不純物が多すぎても、身体に悪いのです。
 ここでも『1/fゆらぎ』がでてきます。『1/fゆらぎ』について興味のある方は、NHK出版から出ている、武者利光著『ゆらぎの発想』をお薦めします。


【ものごとはいい加減に】

 皆さんは子供の頃、次のように教えられませんでしたか。「ものごとはいい加減にしてはだめですよ。」とか、「いい加減なことを言ってはいけません。」それに、優柔不断で信用出来ない人の事を、「いい加減なやつだ。」と言って怒る事があったでしょう。そうかと思うと、子供の頃、長く遊んでいたり、テレビを長時間見ていると、「いい加減にしなさい。」などと言われて、しかられたことがあるでしょう。またお風呂に入った後は「いい湯加減でした。」と言います。それ以外に「いい加減待ちくたびれた。」「いい加減長い道のりですね。」などとも使います。
 このように、いい意味にも悪い意味にも使い、文字通りいい加減な使い方をします。この【加減】とは、加えることと減らすことを、調節するという意味です。「お加減はいかがですか?」と言うのは、「ご自分のお身体の調節はうまくいってますか?」という意味になります。この調節の仕方に少し遊びを持つことが、『1/fゆらぎ』なのです。
 ところが、子供の頃から次のように教えられたらどうでしょう。「人に○○と言われた時は、○○と答えなさい。」とか、「何時何分まで遊んで、何時何分から勉強しなさい。」とか、「テレビはこの番組とこの番組にしなさい。」などと、すべて枠にはめられた育てられ方をして大きくなったらどうでしょう?融通のきかない頑固ものになったり、押さえつけられた反動で、優柔不断でいい加減な人間になったりするものです。最近は一人っ子の家庭や二人兄弟の家庭が多くなり、親がかまいすぎるために、【加減】が決められないか、親が全くかまわない為、【加減】というものが、わからない子供が増えています。この【加減】がわからないと、社会に出た時に困るのは子供本人です。
 最近三面記事の事件に、普通では考えられない事が多くなっています。これも加減のわからない人間が増えている証拠でしょう。もの事の【加減】というものを、あらためて見直す必要があると思います。



いい加減は潤滑油


 いい加減といえば、大阪弁のなかにおもしろい表現があります。「儲かりまっか?」「ボチボチでんなあ。」この「ぼちぼち」とは「ぼつぼつ」の事で、少しずつとか、そろそろという意味です。これでは、ボチボチ儲かったのか、ボチボチ損したのかさっばりわかりません。なんと、いい加減な返事なのでしょう。また道で人に出会った時、「どちらまで?」と聞くと「ちょっとそこまで。」と答えます。聞いた人も「ああ、そうですか。」と納得してしまいます。これもなんといい加減な会話ではないですか。それにまた最近少なくなりましたが、大阪では、買物にいく親子連れに出会うと、次のような言葉を子供にかけています。「えーもんこうてもらいや(良い物を買ってもらいなさい)。」これもいい加減な言い方です。ところが、こういう会話によって人間関係がうまくいっていることが多いのです。
 これを几帳面に、「いくらいくら儲かりました。」とか「いくらいくら損しました。」と答えたり、「どこどこの誰々の所へ何時何分までに行きます。」とか「○○を買って貰いなさい。」などというような会話だったら、息が詰まってしまいます。このように、会話にもいい加減な言い方が、大切になってきます。
 このいい加減も『1/fゆらぎ』なのでしょう。


【精神的にも肉体的にも遊びを】

 肉体的にみるとどうでしょう。心臓の鼓動はゆらいでいると言いましたが、骨格では関節がゆらいでいるのです。その証拠に、両膝を少しゆるめて、立ったまま両手のひらを膝のお皿の上に当ててみてください。「ギシギシ」とゆらいでいるはずです。足をつっぱったとたん「ギシギシ」はなくなります。このように関節は少しゆるめておくことが肉体の健康の秘訣です。
 精神的にもつっぱって生きていくとどうでしょう。徹底したきれい好きの人や、間違いを許さない完全主義の人などと付き合ってみると、一緒にいるだけで疲れてきませんか。『アルツハイマー型痴呆』という原因のわからない病気がありますが、この病気にかかる人に、とても几帳面な人がなぜか多いというのを、以前テレビで見たことがあります。これはゆらぎのない生活を続けてきた反動が、一つの原因になっているとも思えます。
 例えば、自動車を運転する方はご存知でしょうが、ハンドルには「遊び」があります。しかしハンドルに遊びがなかったらどうなるでしょう?ちょっとハンドルが動いただけでタイヤが動くのです。レーシングカーのハンドルがそうなっているのです。運転していても緊張の連続でしょう。日常そのような車で運転していると、事故を起こすか、あるいは寿命を縮めます。
 凡帳面すぎるというのは、緊張の連続と同じだという事になってくるのです。


【楽しいことばかりだとだめ?】

 さて、世の中を見てみると、最近暗いニュースばかりが目立ちます。暗いニュースは無くなってもらいたいものです。しかし、毎日毎日明るいニュースばかりだとどうでしょう。何の苦労もなく、何の問題もなく一生過ごして人生を振り返った時、心の底から喜びが感じられるでしょうか。このように毎日毎日明るいニュースばかりだと、それに甘んじてしまって心に喜びが感じられず、心の向上がはかれないのです。
 例えば、あなたが気楽に暮らしたいと思って、無人島に行ったとしましょう。
そこには、あなたに危害を加えるものもなく、食べ物も豊富に有り、尽きることはありません。まさしくこの世の天国です。ところが、二年三年経つとどうでしょう。単調な生活に嫌気がさしてくるのではないですか?
 では、気のあう友達が一人いればどうでしょう。
はじめは、楽しい日々が続くように思います。ところが日が経つにつれて、お互いの嫌なところが目につき出してきて、これまた嫌気がさしてくるのではないですか。
 それでは、次のようなケースはどうでしょう。
あなたは、一人で気楽に暮らそうと思って、無人島に行ったところ、そこにあなたにとって、嫌いなタイプの人がいました。帰るにも船はなく、しかたなく一緒に暮らすしかないとしましょう。何と不運な事でしょう。はじめは、ケンカの毎日ではないでしょうか。しかし人間はケンカをして、本音でぶつかっている内に、お互いの心が打ち解けてくるものです。心が打ち解けてくると、二人は無二の親友のようになり、ケンカしていた頃を懐かしむように話し合ったり、お互い励まし合ったりするものです。
 このようにみると、心の向上にはどのパターンが良いのか、わかっていただけると思います。適度に問題のある方が活気が出て、意欲が湧いてくるのです。この適度も『1/fゆらぎ』なのです。


【自然界にも偽物が】

 動物や植物の世界を見てみましょう。一見、強いものが弱いものを食べていく弱肉強食の世界ですが、見方を変えると、お互いが数のバランスをはかって助け合って生きているようです。
 これを中国の五行説では『相対相生』と言います。自然界は厳しさも感じますが、優しさも感じます。
 その自然界の中で、だまして生きようとするものがいます。これを【擬態】と言います。擬態とは、シャクトリムシが枝に似せて外敵から身を守ったり、毒をもっていないヘビが、毒をもっているヘビの色や形に似せて生きのびたり、美味しいキノコの近くに毒キノコがあったりします。つまり、本物のそばに少しの偽物がすました顔をして生きているのです。自然界にも偽物があるという事も、不思議なものです。自然界は、相互依存というかたちで調和しているのです。ということは、偽物も何かの役に立っているという事なのでしょう。
 では、どのような役に立っているのか人間の世界で説明しましょう。
よく、「渡る世間に鬼はなし」と言いますが実際はどうでしょう。善人ばかりではなく、善人の顔をして人をだます人がよくいます。だます人がたくさんいるのは困りものですが、だます人が全くいなくていいのでしょうか?善人ばかりでは、何でもかんでも人を信用するクセがついてしまいます。
 「それは素晴らしいことじゃないか。」と、おっしゃる方もあると思いますが、それでは人を観る力を養うことが出来ません。つまり心の向上がはかれないのです。このように、この三次元の世界では、「心の向上」が大きな目的だといえます。心の向上とは自分白身を調和し、この地球を調和し、この宇宙を調和して、それをどんどん発展させていく事にあると思います。
 そのために『1/fゆらぎ』が必要なのです。つまり「雑音・ズレ・偽物・失敗・病気」等、こういったものを【必要悪】と言うのです。天気の良い日に、山に行ってアリを観察して見てください。皆せっせとよく働ているようですが、よく見ると、働いているのかいないのかよくわからないアリが少しいます。人間社会とよく似ているではありませんか。


ゆらぎは生命の源

 前回のフラクタル理論を思い出して下さい。大宇宙のシステムも、人間のシステムも同じシステムだと説明しました。すると、大宇宙大自然に「ズレ」があるのだから、当然私達の身体にも心にも「ズレ」があって当たり前です。このズレが大きくなったり、ズレなくなったときが病気であったり、不幸というかたちになるのです。
 このズレの加減が、仏教では【中道】といい、儒教では【中庸】というのです。
 仏教では『六根清浄』や『煩悩即菩提』という言葉がありますが、この「六根」や「煩悩」というのは「眼・耳・鼻・舌・身・意」から生ずる一切の妄念、つまり迷いです。言い方を変えると【ゆらぎ】と言います。このゆらぎを調節すると、菩提になるという事です。つまり、『六根清浄』とは六根をきれいに磨いていく過程において、心が向上していくという事で、『煩悩即菩提』とは五官に振り回された心を調節して、五官を正しく使っていくと、心は調和していくという事です。
 以上のように、自然の中にも、心の中にも【ゆらぎ】が何故あるのかと言いますと、ゆらぎやズレがあるから、ゆらがなくしようとしたり、ズレなくしようとする力が湧いてくるのです。
 所謂、ゆらぎは【生命の源】という事になります。自然はゆらぐから、生きているのです。皆さんも、自分のゆらぎ方、つまり【中道】の生き方を見つけて下さい。
 次章では「意識・空間・場」について、説明していきます。

Page Topへ

                                    ←第四章     第六章→