第 十 章



祈りT   


【初詣】

 昔から『一年の計は元旦にあり』と申します。本章では人生を生きていく上で、最も大切な【祈り】というテーマでお話しをしていきましょう。
 さて、お正月と言えば初詣です。皆さんは初詣には行かれますか?その時に神様や仏様に手を合わして、なにかを拝んできたことと思いますが、どのようなことを拝んできましたか。一般に多いのが「今年も家族が健康で有りますように。」だと思います。中には、「あの人と結婚出来ますように。」とか「商売がうまくいきますように。」と拝んできた人もいるでしょう。極端になると、「今度の競馬の馬券が当たりますように。」とか「パチンコに勝てますように。」などというのがあるかもしれません。
 普段から神様や仏様には縁のないような人でも、正月やお盆になると、途端に神様や御先祖様に手を合わせたりします。日本人の最も多い【祈り】のパターンだと思います。


【日本人の信仰は他力信仰】

 世界中にも色々な祈りがあります。キリスト教やイスラム教やユダヤ教など、あらゆる宗教に祈りはつきものです。これらの宗教の祈りは日常の生活と密着しているのです。ところが日本での【祈る】とか【拝む】という意味は、世界での【礼拝・祈り】という意味とちょっと違うと思いませんか。日本での「祈る」や「拝む」という意味は、神仏や先祖にお金やお供え物で、なにかをお願いするということになっています。交通安全の神様や商売繁盛の神様、それに安産の神様や受験合格の神様、他にも縁結びや縁切りの神様、等々数え上げたらキリがありません。これらの神様は、一般祈祷と特別祈祷があるように、お金よって少々効き目が違うようです。このように日本人は神様にお祈りをする時は、お金を払うという習慣があるのです。そのためか、旅行先で神社やお寺を見ると、あちらこちらにお賽銭を入れて回っている人達をよく見かけます。
 日本人の信仰のほとんどが他力信仰です。何処どこの神様はよくあたるとか、何処どこの神様はよく病気を治してくれるとか聞けば、少々お金が高くても一度は行ってみる人が多いのです。
 でも皆さん、よく考えてみてください。交通安全を願うなら、安全運転をすることです。また学校の受験に合格したければ、よく勉強をすることです。交通安全の神様に特別祈願をしてもらったからといって無謀な運転をすると事故を起こします。また合格祈願をしたからといって勉強しなかったら受験に失敗するのです。
 

自力の中から他力が働く

 ではなぜ私達は神様に祈願をするのでしょう?
 私はある時、この質問を何人かの人にしてみました。すると、ほとんど次のような答えが返ってきました。「別に本気で神様を信じているわけではないのですが、気休めにはなるでしょう。良いということは何でもしておくと安心するのです。」つい、なるほどと思ってしまいそうな答えですが、この考え方が「他力信仰」を生み出し、お金で神様のランクを決めてしまう元になってしまうのです。たとえば、皆さんは買物をするとき、また食事をするとき、人が良いと言ったものだけ買ったり、食べたりするのですか?そうではないでしょう。やはり最後は自分で決めたものを買ったり、食べたりするはずです。人が良いと言ったものばかりを買ったり、食べたりしていると「あいつは優柔不断なやつだ。」と言われるのがおちです。
 ということは、人間は他力より自力が本来なんだということを知っているのです。
 また、子供をお持ちの方は躾をどのようにしてきましたか?「人にばかり頼らず、自分で出来ることは自分でしなさい。」と教育したのではありませんか。つまり自立心を持たせようとしたはずです。そして子供が困難なことに自分から立ち向かって努力している姿を見ると、親は安心し、陰からそっと援助したくなるものでしょう。親が何もかも全て手伝ってあげる過保護は勿論だめですが、親が全くの無関心になっても子供は素直に育ちません。やはり、自力で一所懸命頑張ったあとは、しつかりと褒めてあげるか、少し援助してあげるのです。つまり「他力」が働いた方が子供は伸びるのです。
 所謂、人間は自力で頑張っていると、他力が働いてくるという形が自然なのです。
 ところが、日本の宗教のほとんどが他力信仰です。『人間は罪深いものだから【神仏】に救ってもらうのです。』とか『神仏に一心にお願いするのです。そうすれば願いが叶います。』などという言葉をよく耳にします。さきほど言った、親子の関係と逆のような気がしませんか?
 【神仏】と【人間】とは親子関係みたいなものでしょう。そうすると、神仏に人間がいきなり甘えていってよいものでしょうか。やはり神仏も人間が自力で頑張っているのを見ると安心して、陰から援助してくれるのだと思います。
 その証拠に、私達は自分で努力した結果、物事が成就したのにもかかわらず、「お陰様で。」という言葉をつい使ってしまうではありませんか。これは、自分一人の力だけではなく、周りの人々のお陰という気持ちと同時に、目に見えない陰からの力に対する感謝の気持ちが込められているのです。
 このように、自力から他力が得られるということなので、他力信仰では人間は向上しないのです。


【キリスト教の祈り】

 では人間にとって【祈り】は不用なものなのでしょうか?
 いいえ【祈り】とは、冒頭でも言いましたように、人生を生きていく上において最も大切なことなのです。私達日本人は、【祈り】という概念をもう一度考えてみる必要があると思います。
 たとえば、キリスト教ではどんな祈りをしているのでしょうか。
 たまたま私は、子供のころキリスト教会の幼稚園に通っていましたので、食事の時は神様に祈りをささげてから食事をしていた記憶があります。その時の祈りの言葉を正しくは覚えていないのですが、次のようだったと思います。『天にましますわれらが父よ、ねがわくば御名をあがめさせたまえ、みこころの天になるが如く地にもならしめたまえ、日常の糧を今日もあたえたまえ、われらが罪を許すごとくわれらの罪を許したまえ・アーメン』と、この様な祈りを毎日ささげていましたが、私自身意味もわからず、ただ食事の時はそうするものだと思っていました。今になって内容を一つ一つ見ていきますと、改めて祈りは意味をしっかり理解していないと祈りではないのだということに気づきました。
 ではこの祈りの内容をみていきましょう。
 『天にましますわれらが父よ』とは「宇宙の神」のことを示しているのでしょう。『ねがわくば御名をあがめさせたまえ、みこころの天になるが如く地にもならしめたまえ』とは、「ねがわくば、神のお心のように生きていきますので、天国のような楽園が地上にもおとずれますよう、ご協力ください」という意味でしょう。
 『日常の糧を今日も与えたまえ』とは「自然界の食べ物は神から与えられている」ということを知っているため「神に対しての感謝」をあらわしています。
 『われらが罪を許すごとく、われらの罪をゆるしたまえ』とは「私達は怒りや愚痴を無くし、お互いの罪を許し合いますので、神よ私達の罪をお許しください」ということになります。
 このように、この祈りの内容自体は、【自力】から【他力】になっています。


【他力信仰の矛盾】

 ところが日本では他力信仰が多いため、信仰に対するあらゆる矛盾がでてきます。
 その参考例の一つを、私の子供の頃の体験の中からお話ししていきましょう。 私の祖母は信心深くて、あちらこちらの神様によく御参りにいっていました。なかでも、わたしの祖父が胃癌で入院している時に、祖母が私を連れて、東大阪にある『できもの』によく効くという神社のお百度参りに行っていた時のことですが、この時の体験が、私に他力信仰に対する疑問を強く抱かせるきっかけになりました。その日は境内でなにやら人だかりがするので、好奇心の強い祖母は私を連れてその人だかりの中に入り、厚かましくも一番前に陣取りました。
 するとその中では、修験道の出で立ちをした大男が、何やら口上を述べているではありませんか。よく聞いてみると、「○○山で△△年修行をして、ついに神様が自分に降りてきて神通力を持つようになり、あらゆる病を治せるのだ。」と言っていました。私は子供心に「不思議な人もいるものだ。」と思って見ていると、そのうちその修験道は「この中のだれかに神様を降ろしてみせよう。」と言い出しているのです。私はますます面白くなってきたと思い、身を乗り出して聞いていました。
 ところがその神様を降ろす対象に、なんと私が選ばれたのです。恐る恐る出ていきますと、修験道は私の前に、子供がやっと持ち上げられる程度の大きさの石を置いたのです。よく見るとその石は紐でしっかり結ばれており、その先は輪にしてあります。修験道は一枚のちり紙を取り出し、細くちぎってその輪の先に通し、私に「この紙の端を持って、力一杯その石を持ち上げろ。」と言うのです。私が言われた通り力を入れますと、当然のことながらちり祇が切れてしまいました。
 そこで修験道は「この子に神様を入れてみます。」と言いながら、何やら呪文を唱えだし、しばらくすると「この子に神様が入られました。」と言い、もう一度ちり紙を取り出して、私に持ち上げるよう指示するのです。するとどうでしょう。ちり紙は切れずに、私は石を持ち上げたのです。周りの人々は驚きのあまり、声をあげている人や拍手をする人、特に私の祖母が一番驚いているようでした。
 その後この修験道は、タイミングを見計らって次のように言いました。「これで神様の力がわかったと思います。今日は特別に神様の力の入った妙薬をお分けします。」と言って、懐から黄色い粉の入った袋を取り出し、集まった人々に売り始めました。その場は見る見るうちにバーゲンセールのような修羅場と化していき、その中でも私の祖母が一番始めに買った事は言うまでもありません。
 その妙薬を持って、祖母は祖父の入院する病院に意気揚々と駆けつけて、いきさつを話して祖父にその妙薬を飲むよう勧めていました。ところが祖父は意に反して、次のように祖母を怒鳴りつけたのでした。「そんな訳のわからん神さんに、うつつを抜かして!その時、わしが死んでたらどうするんや。」私は祖父の言うことが何か正しいような気がしました。祖父には祖母が神頼みに行くより、自分のそばにいるほうが安心なんだろうな、と私は子供心に感じました。それに、さきほどの修験道ですが、ちり紙をすりかえる簡単な手品であることは子供の感でわかっていました。
 しかし他力信仰に盲信していると、簡単な手品にも騙され、自分だけという気持ちから、修羅場のような雰囲気をつくり出すのだということがわかりました。ちなみに祖父は、なんだかんだと言いながらその妙薬とやらを飲んでいたのですが、残念にもその後他界しました。
 このような私の体験は皆さんの周りにも多く見られると思います。


【仏教の願文】

 では仏教の教えそのものが他力を教えているのでしょうか。
 これもまた私事になりますが、学生時代に少し不動禅少林寺拳法というものを学んでいました。当然、仏教なので、教えの端々に禅の教えがありましたが、当時はただ強くなりたいという一心だったため、禅の教えなど石の耳から左の耳にぬけていました。        
 その中でも、毎日の練習の前と後には【願文】といって、仏教の教えを必ず唱えていました。当時は意味もわからずに、ただ義務感だけで唱えていました。今になって改めて【願文】を見て驚きました。どこにも他力など書いてないのです。
その願文の内容は、わかりやすく説明しますと、
『坐禅を組んで、無我の心で自分を見つめ、肉体は日々しっかりと鍛え、心と身体は一体であることを悟る。心を集中して、煩悩を無くし、八つの正しい行い(正見・正慮・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)を日々行ずることによって、一心に悟る。父母には孝を尽くし、兄弟は仲良く助け合い、夫婦は調和し、友達同士はよく話し合うこと。人に対してはうやうやしく自分の行いは慎み深く、慈愛に富み、拳と禅を解得して厳しい世の中を渡っていく。円満な心で徳を積み精進し、拳と禅の心を忘れず不動心を養うこと。』

 以上の内容を読んで頂いてわかったと思いますが、全て自力です。
 この様に、キリスト教も仏教も内容は自力なのに、祈る時はなぜ他力になるのでしょう。日本では苦から『困ったときの神頼み』だとか『神に祈る気持ちで○○をする』などという言葉が使われているため、どうしても「祈り」とは「頼みごと」だと思ってしまうのでしょう。





【祈りという言葉の意味】

 では、ここから【祈り】という本当の意味を説明していきましょう。祈りという字は【斤】を【示す】と書きます。【斤】という意味は、@重さの単位Aオノ・まさかり・木を切る道具、という意味があります。つまり、部分と全体の関係に於いての部分、という意味にも取れます。
 たとえば、私達の身体は一つのように見えますが、目・鼻・口・手・足・心臓・腎臓等々の部分から出来ています。その部位の一つ一つのことを【斤】というのだと解釈できませんか?私はこのように解釈しております。
 そうすると、ここでいう【斤】は、私達一人一人の【魂】のことだと言えます。なぜなら、六章で説明しましたように、私達の【魂】はジグソーパズルの一片のように、一人一人の【魂】が集まって全体の【魂】を造っているのだからです。
 では【魂】を【示す】とはどういう意味なのでしょう。魂とは【想念】のことだと言っても過言ではないでしょう。二章で説明した【想念】を思い出してください。想うとは目的意識の意味で、念とは目的意識が発信されている状態のことだと説明しました。このように考えると、【魂を示す】とは【目的意識を示す】ということになります。即ち、『祈りは目的意識を示すことなり』です。
 皆さんが思っていた祈りの意味とはかなり違うと思います。
 

なぜ祈りが人生に必要なのか

 それではどうして私達は生きていく上において、目的意識を示さなければいけないのでしょう?    
 仏教には『色・受・想・行・識』という言い方があります。
【色】とは物質及び物質的現象をいい、
【受】は感覚作用で、
【想】は想い、
【行】は行動・意志、
【識】は知識のことです。
つまり人間とは必ず想うことが先にあって、行動するのだということです。「いいえ、私はよく行き当たりばったりで、行動しながら考えるということがあります。」と言われる方がいるでしょうが、それは行動する前に『行き当たりばったりで行動しよう』という考えが先にあるということです。強い想いを抱けばそれだけ行動も強くなり、弱い想いだと行動も弱くなるのです。また正しい想いを抱けば正しい行動が、悪い想いは悪い行動になります。
 この想いとは目的意識のことで、【志】の意味です。
 札幌農学校のクラーク博士の言葉を思い出して下さい。『少年よ、大志をいだけ』この言葉の意味は『少年よ正しく強い目的意識を持ちなさい』ということです。この言葉は少年に限らず全ての人間に言えることです。これが【祈り】なのです。この三次元世界では、祈りなしでは生きて行けないのです。
 すると意識の世界、つまりあの世では、「祈り」がいらないということになります。なぜなら、意識の世界では想ったことは、そのまま映像だということです。わかりやすくいうと、私達が夜寝ている時に見る【夢】は、想ったことがそのまま映像になっているということです。
 三次元世界では、想ったことを形に現すことを【時間】というのです。たとえて言いますと、彫刻家や陶芸家が「作品を作成している間」が「時間」なのです。ところが、心の世界ではすでに完成品が出来上がっているのです。この完成品のことを「イメージ」というのです。だからこのイメージが間違っていたら、いくら頑張ってみても良い結果は出てこないということです。
 これで、「祈り」とは冒頭で言いましたように、人生を生きていく上で最も大切な事だという意味がわかって頂けると思います。
 次章はどのように祈れば日常生活に役立つかをお話ししていきます。 
   
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