第 九 章



意識W   


【魂が有限だと思うことは刹那主義?】

 『自分の魂は永遠である』と信じて生きていくことが、あなたの人生にとって価値のある生き方だということが、前号の母と子の会話で、わかっていただけたと思います。「でも、やっばり私は、死後自分が無くなって、価値がなくなるのだとしても、一回きりの人生のその日その日を、人の為に明るく生きていけば、それでいいと思います。」という考え方の人もいるでしょう。
 では、その人達のために、ここで【安心】と【快楽】の違いを考えていきましょう。
 皆さんは、過去や将来を考えず、ただこの瞬間を充実すればいいといった『刹那主義(せつなしゅぎ)』や、人生の目的価値を、快楽におく『快楽主義』をどう思いますか?
 最近はこの考え方の人が多くなりましたが、この考え方を皆さんは、正しいとは思わないでしょう。
 その証拠に子供が勉強せずに、ファミコンばかりしていると、注意をするはずです。それは子供の将来のことを、考えてのことだからでしょう。それと同じように、今の人生だけを一所懸命生きても、永遠の生命の中から見ると、その場(人生)だけの、刹那主義になってしまうのです。
 「そんなことはありません、私は子供の将来や、孫子の代のことまでを考えて生きています。」と言われる方がいるでしょう。その様な方に、「では、二千年先や三千年先のことは考えないのですか?」と聞いたら、「当たり前でしょう、そんな先まで責任がもてますか!」と答えるでしょうね。なにか今、国会で問題になっている、【先送り】とよく似た考え方ではないですか。これは、いろんな責任者の立場の方にも同じことが言えることですが、自分が責任者の立場でいる間だけは、問題を起こしたくないという気持ちがあるのです。
 ところが、自分が永遠に責任者だったら、先送りなど出来ないでしょう。同じように、あなたが死んでも、またこの地球に戻ってきて、生活をするのだと信じていたら、何百年、何千年先は関係ないとは言っていられないはずです。そうです、あなたが【安心】した生き方をしようとしたら、自分の永遠の生命を信じた中で、【今】を大事に生きることなのです。永遠の生命を信じているから、永遠の責任を持つ言動を考えるのです。
 世間ではよく、子供に財産を残してやるとか、いい大学に入れてやるとか、血筋のいい人と結婚させて、盛大な結婚式を挙げてやる、などということが、親の務めだなどとよく言いますが、「そのあとの責任は?」と聞くと「そこまでが親の務めで、あとは本人の責任でしょ!」と、このような意見を耳にします。果たして、そのあと子供が幸せになっているケースが多いと思いますか?
 実は、この考え方が、『刹那主義』『快楽主義』になってくるのです。
親が、『その時の自分の満足感だけを味わっているのだ』、ということに気づいていないのです。やはり、その子の永遠の生命の中から、今なにが必要なのかを判断してやることが、親の務めだと思います。永遠の生命の中から、今世の生き方をアドバイスするには、助け合いの精神や協調性を重要視するのです。なぜなら、必要以上に競争しなくても、いろんな人生を体験できるのだという考え方が前提にあるからです。今世限りの人生だと思っていたら、ついつい子供に競争心をあおって競争社会をつくり出していくのだということに気づいて下さい。
 以上のことからも、自分の魂は永遠だと考えて生きていくほうが、自分にとって大事なことだと、わかっていただけるでしょうか。
 

私たちはあの世とこの世を
輪廻しているの?

 ではこのあとは、『魂は永遠だ』という考え方で、話を進めていきます。
 魂が永遠だということは、未来だけでなく過去も、自分は永遠に存在していたということになります。
 「じゃあ、どんなかたちで存在していたのだろう?」という疑問が湧いてきます。ここで、自分の都合や願望を入れずに、理論的に考えてみましょう。四章でお話ししました【フラクタル理論】を思い出してください。大宇宙も小宇宙も同じかたちをしているという理論でした。
 その一例として、太陽系をみると、太陽のまわりを惑星がまわっていますが、原子を見ても、原子核のまわりを、電子がまわっています。このように、宇宙は大も小も同じかたちをしていることが多いのです。
 そうすると、人間の魂は永遠のなかで、どんなかたちで存在しているのかは、人間の一生のかたちを見れば、同じかたちをとっている確率が高いはずです。それでは、私達の日常の基本的な生活パターンとはどんなパターンなのでしょう。それは、夜に睡眠をとって、昼に活動するというパターンでしょう。
 あらためて考えてみると、私達の人生の約三分の一は眠っていることになります。この眠るとは、どのような状態のことをいうのでしょう?人が眠っているあいだは、この三次元の世界ではなんの役にも立ちません。ということは、魂は別の世界に、つまり四次元の世界に行っているということになります。
 四次元の世界とは、夢の世界のことで、【意識の世界】といっていいでしょう。 私達は一生の間、【意識の世界】と【物質の世界】を循環し続けていることになります。そして、人間の魂も永遠のなかで、フラクタル理論により、【意識の世界】と【物質の世界】を循環し続けているはずです。
このように考えるのが最も自然だと思います。つまり、私達の魂は、俗にいう【あの世】と【この世】を輪廻していることになるのです。
  

【親子の縁は誰が決めるの?】 

 ここまでなら、「輪廻転生説のことだな。」と思われるでしょうが、ここからが大事なのです。
 昔から、この世で悪いことをしたら、地獄に落ちるとか、前世で悪いことをしたから、今世ではこのような環境に生まれたんだとか言う人がいますが、その環境は誰が決めるのでしょう。閣魔大王でしょうか?それとも、神様が決めるのでしょうか?
 神様は、愛と慈悲だけの心だと言われているはずなのに、人間を裁くのでしょうか?
 ここでよく考えて見てください、皆さんの中には、高等学校や専門学校や大学に行かれた方がいらっしゃるでしょうが、その時、自分の進路や学校は誰が選びましたか?あなたは、親や他人に、進路や学校を無理やり決められるのは、あまり嬉しくないでしょう。「そんなことはないですよ、私は親の勧めた学校に喜んで行きましたよ。」という方もいるでしょうが、喜んで行ったことは、結局自分で決めたことなのです。
 このように、自分の進路や勉強の仕方は、自分自身で決めることが、最善の方法なのです。もし、他人に決められたら、困難に出会ったりしたときは、つい他人のせいにしてしまうものです。
 私達の一生も、よく勉強だと言われています。そうすると、魂が永遠ならば、私達は永遠に魂の勉強をし続けるということになります。何度も言いますが、勉強というのは、自分で選んでするから楽しいのです。他人に押しっけられる勉強は、苦痛でしかないのです。
 「じゃあ、私達は生まれて来る前に、今の環境を選んできたのは、自分自身だと考えるのが、最も自然で、納得のできる考え方だということになりますね。」そうです、両親・兄弟・夫婦・子供・友人等々、全て自分が決めているのだと考えるのが、自分にとって納得のできる考え方です。
 このことを、仏教では【因縁】といいます。言い換えると、【約束】ということになります。


【あなたは、ドラマの主役!】

 ではここで、あるたとえで説明してみましょう。
 あなたは、ある劇団の演出者兼舞台俳優で、それも主役です。まず最初にあなたのすることは、ストーリーをきめ、そして、そのストーリーに適した配役を決めるでしょう。それからあなたは、その配役の人々に、その役を引き受けてもらうためにお願いにまわらなければなりません。このようにして、役を引き受けてもらったら、入念に打合せをします。但し、この芝居はリハーサルなしの、ぶっつけ本番です。それも、超ロング・ランです。
 芝居が始まる前は、希望に胸膨らんでいますが、さて芝居が始まってみると、ぷっつけ本番なので、なかなか始めの計画通りにはいかないものです。芝居がうまくいかないといって、相手役の責任にはできないでしょう。あなたが頼んで、引き受けてもらった配役だし、ましてあなたは、演出家でもあるのです。では、どのような時に、どうしてこの演劇の内容を、チェックすればいいのでしょう。当然、舞台の上演中は、チェックできないので、舞台が終わって自宅に帰ったときに反省するべきでしょう。
 毎日、自宅に帰れるわけですから、毎日、自分の役について反省して、自分の役をしっかりとこなしていけば、まわりの人も徐々に調子よくなり、演劇は最初の計画通り進んでいくはずです。
 なぜなら、主役と脇役の協調によって芝居は、良くもなり悪くもなります。その主役の気持ちが歪んでいたら、脇役はのってこないでしょう。やはり主役は気持ちを正しく持って、脇役のことを思って役をこなしていくと、演劇はうまく運んでいくのです。そうして、やがて公演も千秋楽が近づいてきます。
 その頃には、舞台俳優として、ある程度【味】がでてきているでしょう。あなたの【味】の如何で、この公演の価値がでてくるのです。なぜなら、次回の公演の善し悪しに多大の影響があるからです。


【人生は三次元舞台でのドラマ】 

 このようなたとえと同じことが、あなたの人生についても言えるのです。
 この三次元の世界を舞台だとしますと、本当のあなたの世界は意識の世界だということになります。言い換えると、あの世が本当のあなたで、この世は仮のあなただということです。私達が今まで思っていたのとは、まるっきり逆の発想です。
 この発想で進めますと、この三次元舞台に出るためには、最初に両親を選ばなければなりません。仮に、両親になってくれる人がいなかったら、あなたは、永遠に三次元舞台には立てないのです。その結果あなたは三次元舞台で、勉強をすることができず、あなたの魂は永遠に向上しないのです。このように考えると、いかに、両親には感謝が必要か、わかっていただけるでしょう。
 それに両親の役をお願いする時期は、当然、両親となるべき人が、生まれてくる前ということになります。そうすると、親子の縁を約束したのは、かなり以前からだということです。
 仮に、あなたは、何十年も前に、あなたにとって大事なあることを、友達と約束をして、それを友達が忘れずに、あなたとの約束を果たしてくれたとしたら、どんなに嬉しく思い、またどんなに、約束を果たしてくれた友達に、感謝をすることでしょう。その長年のあなたとの約束を果たしてくれた友達、それがあなたの【両親】なのです。
 さて、あなたは両親との約束により、この世に生を受けます。そして両親の【愛】を一杯うけて成長していき、いろんな人々と縁を結び、あなたの今世の役柄を果たしていくのです。
 さきほどのたとえの中で言いました、演劇のチェックを自宅に帰ってするというのは、人生では、眠るということが自宅に帰るということなのです。ですから、【寝付けない】【眠りが浅い】【夢見が悪い】等は、あなたの今世の役柄がうまくいってない証拠です。そこであなたは、「反省瞑想」が必要になってくるのです。
 この反省の基準は、まず周りの人々全てに、感謝ができているかどうかです。
 そして、あなたがこの三次元舞台の演出家として、自分をも客観的にみて役柄のチェックをしていくのです。その時に、あなたは今世での存在価値、今世での目的を見出せるのです。結果として、あなたは全てのものに【感謝】ができ、全てが【あなた】だと感じられる瞬間です。
 あなたは、静かに【瞑想】に入っていき【瞑想三昧】の境地に達していくでしょう。


人生は楽なり!

 よく人生は、『生きる道』というように『道』そのものだと言われます。   『道』は『通路』とは違います。道とは、歩くこと自体に目的があるのです。通路とは、ある目的地にいくための、通り道なのです。つまり、通路は終わりが有り、道は終わりが無いのです。言うなれば、私達は永遠の旅人です。肉体という乗り物に乗って旅をしながらいろんな体験していくのです。また肉体が壊れたら、新しい肉体が貰えるのです。    
 これを苦しみだと言えるのでしょうか?よく『人生は苦なり』といいます。実は、人生とは本来『楽なり』ではないでしょうか?『道楽』といったらなにか悪い意味に使われますが、道は楽しむべきだと思います。華道や茶道や柔道、剣道、弓道、等々、この道を修行している人達は一見苦しんでいるように見えますか、よく見ると、なにかを楽しんでいるようには見えませんか。


【信心とは?】

 あなたも、八章と九章を読んでいただいて、このような考え方をすることは、自分にとって価値があるなと思ったら、是非、実践してください。
 この様に、正しいと思った考えを実践していくことを、【信心】というのです。
 永遠の生命を信じて、実践していると、本当にあなたの前世や前々世、またあの世が見えてくるかもしれませんね。もし見えたとしても、人に言いふらしたり、自慢したりするものではありません。
 なぜなら、あなたの心の向上とは、なんら関係ないからです。それに、自分にとって、とても良かったからといって、人に押しっけたりするものでもありません。仮に、みんなで潮干狩に行って、ある珍しい貝をさがすゲームをしたとしましょう。貝は人数分あります。そして、あなたは他の人より早く貝を見つけました。そのあとあなたはどうしますか?みんなに自慢して回りますか、それとも自分だけで楽しんでいますか?「いいえ、わたしはまだ見つけられない人のために、一緒になってさがしてあげます。」このように答える方は、とても優しい人だと思いますが、あなたは珍しい貝を見つけるのに人に見つけてもらって嬉しいですか?
 あなたは、自分で見つけた瞬間が嬉しかったのではありませんか?それなら、人にもその気持ちを味わってもらいたいと思いませんか?よく考えてみると、私達は潮干狩を楽しむために来ているのです。 
 じゃあ、貝を先に見つけた人は、どのような行動をすればいいでしょう?時間さえかければ、みんなもそのうち貝を見つけるのです。さきに見つけた人は、まだ見つけていない人が貝をみつけるための、お手伝いや応援をしてあげればいいと思いませんか?
 私達は人生で、貝ではなくて【やすらぎ】を探しているのです。そのためには、「発想の転換」が大事だと思います。その「発想の転換」が出来て心のやすらぎを見つけた人は、まだ探していらっしゃる人々に、押しっけるのではなく、お手伝いや、応援をしてあげればいかがでしよう。
 次章からは、【やすらぎ】を探していくためにはとても大切な【祈り】ということについて説明していきます。
   
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