第 三 章



陰 陽T


【陰陽五行説】

 私達はよく「あの人は陽気な人だ」とか、「あの人は陰気な人だ」などといったり「陰徳有れば必ず陽報有り」などとも言います。この【陰陽】とはどのような意味があって、どのような役割をしているのでしょうか?それにはまず、中国の『陰陽五行説』から見てみましょう。古代中国に於いて陰陽思想は「自然界の根源である大極から陰陽の二気が生まれ、また大極に統合される」と考えられ、この思想が易の理論や中国医学にも適用されています。
 陰陽の分化は、まずは動的なものが【陽】で静的なものが【陰】、つまり能動的が【陽】で、受動的が【陰】だということです。

さらに見ていきますと、
「昼(陽)夜(陰)/日向(陽)日陰(陰)/夏(陽)冬(陰)/表(陽)裏(陰)/明(陽)暗(陰)/剛(陽)柔(陰)/火(陽)水(陰)」

運動の方向的に見ますと、
「前進(陽)後退(陰)/右旋(陽)左旋(陰)/上方への運動(陽)下方への運動(陰)/外への運動(陽)内への運動(陰)」

人間で見ていきますと、
「男性(陽)女性(陰)/左半身(陽)右半身(陰)/上半身(陽)下半身(陰)/背部(陽)腹部(陰)/体表部(陽)体内深部(陰)」。

 このようにあらゆる現象を相対的に見て陰陽に分けていますが、「陰中に陽有り、陽中に陰が有る」といい、また「陰が極まれば陽となり、陽が極まれば陰となる」ともいわれ、陰陽は基本的な概念で広範囲に適用されています。
 そのほか【虚実】という言い方を用い、広義には陰陽ともいえますが、中医学では陰陽と分けて「陽実陰虚」「陰実陽虚」などと表現しています。
 西洋のギリシャ時代に於いては、万物の根源を【水】と考えたり、【火】と見ており、【風・火・水・土】の四つに宇宙を分け、ヒポクラテスの医説にも取り入れられていました。
 古代インドでも『四大』といって【地・水・火・風】に分け、古代インド医学の基礎になっていました。
 中国でも春秋戦国時代には、すでに陰陽説とは別に『五行思想』というのがあり、万物を【木・火・土・金・水】の五つに分け、相生関係・相尅関係によって一切の相互的な現象を説明しようとしました。この五行説が、陰陽説と結びついて『陰陽五行説』となり、日本にも多大な影響を与えました。


【日本では陰陽道として】

 中国での陰陽五行説は、自然科学や哲学・医学などの分野に主要な理論として用いられましたが、日本では仏教や道教と共に入ってきた関係もあって、占術・呪術的に使われるようになり、「陰陽道」として普及していきました。陰陽師として有名なのが、平安中期に活躍した安倍晴明です。晴明には、自在に鬼神を扱うとか、予知や透視・占術・幻術に優れていたとか、死者を甦らせるたなどの数々のエピソードが付きまとっています。
 このような陰陽師は、奈良・平安時代には、ときには天皇まで動かす国家専属の官僚占術師として活躍しました。かくして陰陽道は、天文と占筮を中心とする占術それらをもとにした呪術、さらに道教・密教ほかに神道や修験道の中にも入り込み発展し、日本のオカルティズムの源流となっていきました。
 五行の五色は、今日でも相撲の櫓の四方の房の色として『東の青房・西の白房・南の赤房・北の黒房』として用いられ、中央の草色は土で土俵によってされています。
 また江戸城を作った徳川家康は、側近の天海僧正によって陰陽道の四神の図『東方蒼龍・西方白虎・南方朱雀・北方玄武』にかなった選定を行ったと言われています。
 陰陽五行説はこのように、宮廷や幕府はもとより、華道や茶道などの芸事をはじめ、田楽や能楽、歌舞伎など芸能関係や民間信仰に深く影響を与えていきました。
 中医学の面においては、漢方や鍼灸の理論にも取り入れられてきましたが、『長濱善夫先生著・東洋医学概説』には次のように書かれてあります。

「五行説は、これを実際に活用すれば80%の信頼度があると言っている人もある。しかし、公平に見ても一面の真理をうがったものとして、少なくとも50%以上の妥当性は認めてよいようである。このことは、古来、古方派の人々から迷信扱いされ、無用の説として排撃されながらも、なお廃棄されずに今日まで伝えられて、後世派医方の理論体系を裏づける基礎理念になっている理由でもある。即ち、五行説はこれを盲信しないで、一種の方便として利用する限りは、東洋医学独特の妙味ある仮説として、あえて存置に値するものとみなしてよかろう。このように「五行説はこれを盲信しないで一種の方便として利用する限りは」と長漬先生はおっしゃっています。
 陰陽五行説も使い方では妙薬になり、また日本の歴史まで左石する占術・呪術になってしまいます。
 現在でも若者の間では、占いやオカルトブームです。世の中が不安定になればなる程、占術・呪術がはやり、私達の前にしのびよって来ます。このようなものにとらわれると如何に危険なのか、また宇宙は何故陰陽の相対的に出来ているのか、以下説明していきましょう。



 

【老子と聖書】

 まず老子の有名な言葉を紹介しましょう。「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず、万物は陰を負うて陽を抱き、冲気(しょうき)はもって和を為す」
 この言葉は易の哲学にも影響を与えられ、漢代以後にはよくまとめられ「道は一に始まる。一なれば生ぜず、故に分かれて陰陽となる。陰陽合い和して生ず。故に曰く一、二を生じ時、二、三を生じ、万物を生ず」と『淮南子(えなんじ)』に書かれています。
一方西洋では、どのように表現しているのか、聖書から引用してみましょう。

『創世記第一章』より。

「『神は光あれ』と言われた。すると光があった、神はその光を見て良しとされた。神はその光と闇とを分けられた・・・。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言れた『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ、また海の魚と、空の鳥と、地に動く全ての生き物とを治めよ』」 以上のように書かれています。
 

【東洋と西洋の共通点】

 東洋と西洋ではかなり言い方が違いますが、共通点が見出せると患います。東洋では「道は一を生じ」で、西洋は「神は光あれと言われた」です。
 【道】とは日本では、武士道、華道、茶道または人の生きる道などと言い、形の無い物で、言葉に現しにくいものです。
【神】というのも、日本では「八百万(やおよろず)の神」と言ったり、宗教の中でもそれぞれの神がいるみたいで、よくわかりにくく形のないもので、言葉に表しにくいものです。
 この場合の【道】と【神】とは、同じような意味だと思われますが、さてどのような概念でとらえればよいのでしょうか。
 先程の創世記の中の一節で、「神は自分のかたちに人を創造された・・・」という部分があります。このことから「神は光あれと言われた」という部分は「人は光あれと言われた」と言葉をおきかえても同じことだといえます。
 人が言葉を発する時は、まず胸で光をイメージし、胸で【意志】を固め、言葉を発します。また逆に言葉を発する前には【意志】を持ち、その前に【意思】があり、その前には【意識】があります。
 つまり人間は意志を持って行動しますが、意志を持つには意識が無いとだめだいうことです。





【意識とは】

 では、この【意識】とは何をもって、また何と比べて意識というのでしょう。目を閉じると意識があるのはわかりますが、「どうして意識だと確認できるのですか?」と聞かれても【有る】としかいいようがありません。
 この表現と同じ表現を私達は『聖書出エジプト記第三章』の中に見出せます。
 「神はモーゼに言われた『わたしは、有って有る者』また言われた『イスラエルの人々にこう言いなさい、【わたしは有る】という方が、わたしをあなたのところへつかわされました』と」 また二十章に「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」有名な十戒の中の一つです。これは「唯一絶対」と言う意味で、相対つまり【二】ではありません。
 【意識】とは唯一絶対のもので、そこから意志が生まれ相対の世界へ入ります。相対とは陰陽のことで、この陰陽が調和すると【中(ちゆう)】となります。男女が調和すると子供が生まれ、酸素と水素が調和すると水になり、塩酸と水酸化ナトリウムが調和すると塩になるという事です。
 【道】を意識におきかえますと、意識は「一(意志)を生じ、一(意志)は二(陰陽)を生じ、二(陰陽)は三(中庸)を生ず、このくりかえしで万物を生じていく」ということがよくわかると思います。
 創世記でも神は光(一)あれと言われ、光と闇とを分けられた(二)、そして循環しだして朝昼夜のくりかえし(三)が始まります。
 また神は自分のかたちに人を創造し(一)、男と女とに創造され(二)、彼らを祝福(調和)して言われた生めよふえよ地に満ちよ(三)、ということで三つのパターンにあてはまります。
 以上のように見ますと【道】も【神】も宇宙の意識だといえます。別の言い方をしますと、【場】とか【空間】といいます。逆にいいますと、場と空間には意識があるということになります。
  

【万物の基本は一・二・三】

 では次に「一」・「二」・「三」の三つのパターンの説明をしていきましょう。
 私達はこの物質の世界で生きています。次元でいうと三次元世界といい「縦・横・高さ」の世界で生きています。この地球も「太陽(陽)・地球(中)・月(陰)」に、地球も「岩圏(陽)・水圏(中)・気圏(陰)」に大別され、さらに「動物(陽)・植物(中)・鉱物(陰)」「固体(陽)液体(中)気体(陰)」に、液体は「酸性液体(陽)・中性液体(中)・塩基性液体(陰)」に分けられます。
 電気は「+(陽)・N(中)・−(陰)」、原子は「陽子(陽)・中性子(中)・電子(陰)」に、光の三原色は「赤(陽)・緑(中)・青紫(陰)」、色の三原色は「赤紫(陽)・黄(中)・青緑(陰)」。
 また更に、あらゆるものを見ていきますと、小宇宙である人体は「頭・胴体・四肢」、時間は「過去・現在・未来」、気功の基本は「調身・調息・調心」、諺に「三人寄れば文殊の知恵」、毛利元就の「三本の矢の教訓」、スポーツは「心・技・体」、仏教は「智・情・意」、キリスト教は「父と子と精霊の三位一体」、等々三つのパターンはあらゆるものの基本になっています。


【数字のしくみ】

 数字そのものを見ても『一(陰)・二(中)・三(陽)』の三つのパターンしかないのです。そのことは、次のように説明できます。
 「一に三をプラスして四」、「四に三をプラスして七」、「二に三をプラスして五」、「五に三をプラスして八」、「三に三をプラスして六」、「六に三をプラスして九」です。
 つまり一(陰)のグループは「一・四・七」、二(中)のグループは「二・五・八」、三(陽)のグループは「三・六・九」で、それ以上になっても「七に三をプラスして十」、この十とは一つの単位で、一のグループです。十一とは十と一の組合せで、二のグループで、十二は十と二の組合せで三のグループです。
 この様に一(陰)のグループは「一、四、七、十(一)、十三(四)、
十六(七)、十九(一)、二十二(四)、二十五(七)・・・」、二(中)のグループは「二、五、八、十一(二)、十四(五)、十七(八)・・・」、三(陽)のグループは「三、六、九、十二(三)、十五(六)、十八(九)・・・」、以上のように全ての数字が「一(陰)二(中)三(陽)」「四(陰)五(中)六(陽)」 「七(陰)八(中)九(陽)」の三つのパターンからできています。
  




【三次元は空?】

 この三つのパターンも元は、【意識】から出ているのです。その意味を次に説明してみます。
 安定した形の円を見ても、基は三角形で、四角形、五角形、六角形・・・と無限に円に近づいていきます。無限に近づくという意味は、円周率をみるとわかります。つまり円周の直径に対する比はπで表され、無理数で3.14159・・・ということで、完全な円は表せないということになります。
 ではその基になる三角形はどうでしょう。三角形の定義は同一直線上にない【三点】を結ぶ【三つの線分】からなる図形です。では【点】の定義とは、位置だけあって大きさのないものです。【線】の定義とは、位置と長さだけで幅も厚さもないものです。
 そうすると私達は、正確な三角形は図で表せないことになります。図で点を表そうとして、いくら小さく書いても【面】になり、その面積を1/2ずつ小さくしても無限に小さくなりつづけて(一割る二は〇・五、〇・五割る二は〇・二五、〇・二五割る二は〇・一二五、〇・一二五割る二は・・・これは一の二分の一を繰り返してもしても永遠に「零」にならないという意味です)【点】にはなりません。
 【点】とはつまり架空のもので、その架空の【点】の連続が【線】で、これも架空です。その架空の【線】と【線】の間を【面】といいます。つまり【面積】も架空となってきます。
 この【面積】に架空の【線】を上に延ばして立体化するのです。そうすると、この【三次元物質の世界】になり、これも架空となるわけです。文字通りこの世は【空】ということになります。
 

【(点と線)(今と時間)の関係】

 では三次元の基になる【点】ということを考えてみますと、位置だけあって大きさのないものは【意識】の中でしか表せません。ということは、【意識】の中から一次元、二次元、三次元が生まれてきたことになります。このことと同じような説明を【時間】というものにも当てはまります。【時間】とは、過去・現在・未来の流れです。つまり「今・今・今・・・」の連続のことだといえます。
 では、この【今】というのはどういう定義なのでしょう。この変化する世界では【今】とは架空のもので、現すことが出来ません。しかし、意識の中(瞑想)では理解出来るのです。その架空の【今】の連続が【時間】として現れてくるということと、【点】と【線】の関係とが似ているのも不思議なものです。
 それにまた、物理の世界では『不確定性原理』といって、電子の運動量を正確に測定しようとすると、位置がわからなくなり、位置を正確に測ろうとすると、運動量がわからなくなります。
 このことも、瞑想で【今】を理解すると、【時の流れ】がわからなくなり、【時の流れ】の中では【今】がわからなくなることと、同じことだというのも不思議なものです。
   

【万物は意識から創られる】

 このように、全てのものが意識から出ているとわかってきますと、先程言ったように神を宇宙の意識と解釈しますと、この三次元宇宙は、正に神が創造されたということになります。この宇宙意識と私達の意識との関係について、どのように考えられるでしょうか。
 さて意識とは「唯一絶対」といいました。【関係】というと、これはもう相対的ということになるので、私達の意識は宇宙意識の【一部】と考えるべきでしょう。【一部】とは【同一】ということになり、私達は「宇宙意識(神)」そのものということになります。このことはもっとも重要なので、別のテーマの時にくわしく説明していきたいと思います。
 つまり私達の人生の目的は、宇宙意識に目覚めて、この三次元宇宙を調和していくことにあるといえます。なぜなら、宇宙意識が自分だということは、自分を調和し自分を形成していくことになるからです。その目的を忘れてオカルトや占術・呪術に興味を持つということは、超能力を持ちたいとか、将来を知りたいという目的を心に持つということになるだけです。このように目的を取り違えますと、調和からはずれていき、不安定に向かっていくということになります。不安定とは苦しむということですから、自分の人生を崩壊させることになります。
 このように三次元物質の世界は、意識から作られているのです。そしてまた、調和を目的とし、私達の心を磨くために存在しているともいえます。このことは次のように考えてみると、よくわかると思います。
 私達はジグソーパズルという遊びをするでしょう。なぜ完成してあるものをバラバラにして、それを組み立てるのが、おもしろいのか考えて見たことがありますか?一つ完成すると、より難しいものに挑戦するというように、なにか大きな困難に向かっていきます。これは完成したときの喜びを味わうためでしょう。このような現象は、登山などや芸術など、あらゆるものにあてはまります。


【宇宙はジグソーパズル】

 このジグソーパズルの形が宇宙(自然)と思って下さい。ジグソーパズルを買ってきた時はバラバラに見えますが、既に完成してあるものです。一片一片を見ると、全部形が違いますが一つのものです。
 完成されないジグソーパズルをいつまでしていても、喜びは味わえません。私達は完成されているものと信じて作っているはずです。
 私達が自然や人を信じ、手をとりあって調和を目的として生きようとしている姿とよく似ているではありませんか。


【宇宙の陰陽理論】

 このジグソーパズルの組合せ方が、『宇宙の陰陽理論』です。では、この陰陽の関係というものについて見てみましょう。
 この宇宙の姿は相対的といいましたが、正確にいうと『相互依存的』ということです。例えば親と子の関係は、親がいないと子は存在しませんし、逆に子がいないと親も存在しません。また兄弟もそうで、兄がいないと弟とは呼びませんし、逆もまたそうです。
 酸性がなければアルカリ性とは呼びません。上がなければ下ともいいません。それに、人はよくあの人をお世話してあげたと自慢しますが、お世話される人がいないと、お世話が成立しないということを、私達は忘れています。このことを能動的・受動的という言い方をするだけで、相手や立場によって陰陽が入れかわります。
 男女関係に於いては、このことを昔から、男(陽)は男(陽)らしく、女(陰)は女(陰)らしく、という言い方をするのです。最近はこのような言い方しますと、差別用語だといって言わなくなった為、男らしい人や女らしい人が少なくなってきたことは、残念なことです。この陰陽のバランスが崩れてくると、自然の調和が失われていくのです。
 人間の体をみても脳は、右脳と左脳に分かれ役割が違います。最近右脳右脳といわれますが、右脳と左脳の関係に於いて脳が成立しているということが忘れられ、右脳開発ブームになっていますが、非常に危険なことです。
 また前述しました左半身が陽で右半身が陰だということを知るために、内臓を見てみましょう。腎臓と心臓の関係は水と火の関係で、腎臓が陰で心臓が陽ですが、腎臓は二つ有り左が陽で右が陰です。その証拠に左の腎臓の方が右の腎臓より少し上にあります。心臓(陽)をみても、体の少し左側にあり、中は左心房・右心房・左心室・右心室にわかれ左心房(陽)には大動脈(陽)がつながり、右心房(陰)には大静脈(陰)がつながっています。そして大動脈は体の中心より左側(陽)を大静脈は右側(陰)を流れています。
 スポーツの面でも、野球をみるとバッター(右利き)は左半身(陽)をピッチャーに向け、ピッチャー(右利き)も左半身(陽)をバッターに向けてかまえます。これは、陽が陰より前にでているという意味です。弓道をみても、ゴルフをみても然りです。
 また私達は、神社に行って相手をうつ時、右の掌(陰)を少しずらしてたたきます。そして草履を開くと「人」という字になります。「人」という字は、左(陽)が上(陽)で右(陰)が下(陰)に書いてあります。つまり上が男(陽)で下が女(陰)です。


【なぜ男が(陽)で女が(陰)か?】

 こういいますと、また差別だと言われそうですが、上下ではなく別の言い方をしますと、「支える人と支えられる人」或いは「育てる人と育てられる人」という言い方になり、大地と種子の関係とよく似ています。よく肥えた大地に、元気のない種子を蒔いても種子は元気に育ちますが、荒れた大地には、元気な種子を蒔いても種子は死んでしまいます。この場合【大地が陰】で【種子が陽】です。
 つまり【大地が女】で【種子が男】です。その為か、定年を迎えた男性が家に入ると、奥さんの後ばかりついて歩くようになり、奥さんに先立たれると、後を追うように死んでいくケースが多いのです。逆にご主人に先立たれた女性は、力強く第二の人生を生き抜いていくケースが多いのです。正に【女性が大地】で【男性が種子】ではありませんか。
 また例えが良くないかもしれませんが、鵜匠と鵜の関係を見ると、鵜匠が(陰)で鵜が(陽)です。鵜匠の腕一つで、鵜の魚を取る量が違ってくるということでわかるように、鵜は鵜匠にほめられるのが嬉しいのです。厳しくすると、鵜は逃げ出すかも知れません。まるで夫婦の関係を見るようではありませんか。この事から、男は男らしく、女は女らしくという意味がわかって頂けたと思います。
 しかし女性が社会に出ると、陽の役割をする場合があります。社長と社員の関係を見ますと、社長は陰で社員が陽になり、経営者の腕一つで社員がよく働くということです。皆さんもこの陰陽バランスを、よく考えて行動すると、調和して幸せになるということを知ってください。
 まずは夫婦関係から見ていけば如何でしょう。
 次章も引き続き、陰陽について説明していきます。

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